森のプラットホーム
私はホームの真ん中で電車を待っていた。
北の大都市、S市と言っても、ここは郊外の住宅地。あたりを山と海に囲まれた、自然豊かな場所だった。
そういったわけで、うちの近くにあるこの駅も片側には緑の壁がある。そちらはちょうど小さな崖になっていて、木やら花やらに埋め尽くされているのだ。そこだけ見ると、まるでもっと田舎の、それこそ山間にある駅に見えなくもない。
この夏のさなか、ゆさゆさと風になびき、陽光を葉に反射させ、その隙間からきらきらと陽をのぞかせてくれる木々を眺めることは、ずいぶんと気持ちを浮き立たせてくれるものだ。無闇にどこか遠くへ行きたくなってくる。
しかし、今は夜である。
夜の緑壁はもっと優しく、なでるようなそよめきを与えてくれる。月明かりの下でさわさわと音をたてるそれは現実的な雰囲気など露ほどもなく、いっそ神秘的で妖しい。それは正に、蠱惑的な微笑みで誘うドリアードだ。分かっていてもついふらふらと呼び寄せられてしまうような、そんな気配がそれにはあった。
一瞬、本当にそんな精霊の姿を見たようで、私は思わず目をこすった。もちろん、注意して見たところで何もいない。
軽い酩酊感にも似たような目眩を振り払い、私はまた、電車を待つ。今日はこれから大学時代の友人と飲みに行く予定だった。
――その前から酔っていてどうする……
苦笑とともに、しかし私はもう一度その暗緑を眺めやる。こちら側に覆い被さるように伸びるそれらは、やはり不思議な吸引力を持っていた。
そうやってしばらくぼうとしていると、警笛の音が聞こえた。ようやく電車が来たらしい。スピードを落としながらホームに入ってくる電車には人が少なかった。平日の十九時という中途半端な時間だ。こちら側から中心部に向かう人はそんなにいないのだろう。
シュウ、という音がしてドアが開く。開かない側のドアの向こうに緑壁が見えた。
足を一歩踏み入れる。
そこは、森の中だった。
さっきまでの壁など可愛いものだと思えるくらいの、圧倒的な緑の洪水。私を取り巻く木、木、木。地面には腰までの下草が生え、ほのかに夜露に濡れている。いたるところで虫の声が響き、あたりには、濃厚な植物の匂いが充満していた。
私は言葉を失った。はたして、言葉を失わない者がいるのだろうか。
私は先程まで駅のホームにいて、ぬるま湯よりもいくらか熱い夜の大気に触れ、そして冷房の膜を突っ切って電車に乗ったのだ。乗ったはずなのだ。なのに。
そこに広がるのは森である。
後ろを振り返る。乗ったはずのドアはなく、やはり深い、暗い緑の海が続くだけだった。
途方にくれた私は、しばし茫然とそこに立ち尽くしていた。ドア近くのシートに座っていた男もいないし、可愛らしくめかした子どもと、母親の二人連れもいない。そもそもシートがないのだ。一体どこへ消え失せてしまったというのだろう。
――そりゃ、ここは森だし……
混乱した頭で、そう考える。すでに何が変なのかも良く分からなくなっている。
ただ、そんな頭でもようやく気付いたのは、ここが涼しいということだった。この季節の森の中なら、むっとした湿気がたちこめているはずだからだ。それともう一つ、面白いことに、これだけ虫が鳴いているのに、どこにもその虫が見えないのである。試しに足をがさがさやってみても、小さな虫すら飛び立つ気配がなかった。
不思議ではあるものの、次第に落ち着いてきた私は、とりあえず進むことにした。よく見てみると、少しだけ下生えが掻き分けられたような跡があったのだ。それに、ここでずっと立っていても多分どうしようもないし、それならまだ進んだ方がマシなはずである。
そして、そうやって歩いてみると、森の中は随分と気持ち良かった。濡れた下草には少々閉口するものの、冷房が効いたように涼やかであるし、遠く近くから聞こえる、りんりんとした虫の音も良く耳に馴染む。なにより森自体が見せるその風景が、私を安らかにさせた。というより、私は陶然となっていたと言っても良いだろう。
森は、淡く光っていた。
何が発光しているのかは分からないが、普通は見渡すことができない、濡れ羽色の夜の森がその姿を私にさらしている。まるで王侯貴族のように悠然と構える高木と、楽しげに踊る花たち。彼女らをエスコートする若々しい低木と、主人の世話をする名も無き下生え。古代の宮廷を思わせる、緑の王国。私の周りで、そのパーティはいつまでも続けられていた。
何度、ふらふらと引き寄せられその中に足を踏み入れたことだろう。妖しい闇緑色の饗宴は、ひどく蠱惑的だった。
しかし哀しいかな、私が近づくと、その夢幻の風景はものの見事に霧散し、そこよりも少し遠くでまた、楽しげなダンスが始まるのだ。
それでも、私は諦めずその場所を目指した。もとより、この森の中、どこに行く当てもないのである。誘われるように、私は森の奥へ、奥へと歩みいれていった。
そしてついに、私は彼らに追いついた。一歩足を踏み入れても、彼らは消えなかった。
王は威厳をもって莞爾と笑い、姫君たちはくすくすとさざめきながら私を見やり、若い貴族たちはもう少しあからさまに私を見て、意中の姫君をとられはしないかとうさんくさげに値踏み、侍従、女官は気にすることもなくあくせくと働いている。
その全てが私を魅了した。普段伺い知ることのできない森の中のサロン。入り込むことのできない、華やかなパーティ。
私は、もう一歩、足を踏み出した。
そこは駅だった。街の中心にある、S駅。何本もある長いプラットホーム。目の前には、これから電車に乗り込もうとする男の顔がある。彼は、邪魔くさそうに私を睨み、さっと避けて乗り込んでいった。
「あ、れ……?」
どうやら私は電車のドアの前で立ち尽くしているようだった。むわっとした夜の空気が、じわじわと私を圧迫し、湿らせていく。もちろんそこには幻想的な森などなく、振り返って見えるのは見慣れた車内である。
私が動き出したのは、乗ってきたはずのその電車がゆっくりと出発した後だった。
狐につままれた面持ちで、私は歩き出した。長いホームにはすでにほとんど人はいなかった。
――そういえば、どうしてこんなホームの端の方にいるのだろう……
そう思いながら、改札へ向かう階段を下る。別のホームで停車している電車の駆動音と、改札付近から聞こえる喧噪が、うわんと響いている。
その音が次第に私を正気に戻していった。そうだ、飲みに来たのだ。元々ここが目的地だったのだ。
一つ息を吐いて、ポケットから定期入れを取り出す。と、一緒に何かがこぼれ落ちた。
それは、一枚の葉だった。
一瞬、小さなドリアードが笑ったように見えた。