落とし物
しかし、何を落としたのかがわからない。
落とし物をした、という感覚だけがあるのだ。
一体何を落としてしまったのだろう。
そもそも落とし物なんてしていない可能性のほうが高い。しかし確かに感覚があるのだ。落とし物をした、という変に確固たる感覚が。
困ったことになったな…と、とりあえず部屋の中を探し回ってみる。
これならまだ携帯電話やクレジットカードなど、世間一般で「落としたら相当困るものランキング」の一位二位を飾りそうなものを落としたほうがマシだ。それらは万が一落としてしまったとき、第三者が落としたことを聞き入れ、認め、きちんと処理までしてくれる。
日頃携帯電話やクレジットカードは絶対落としたくないな、と思っていたが、これらの落とし物なんてまだ可愛いもんだとまで思えてきた。
一通り部屋の中を探し終え、落とし物を見つけられなかったため外に出た。
いつの間にかずいぶん涼しくなっている。ドアを開けた瞬間、まるで狙ったかのように首筋をかすめた風に思わず肩をすくめた。そろそろ季節が変わるのだろう。
いや、今そんなことはどうでもいいのだ。落とし物を見つけなければ。
どこで落としたのか、というかそもそも何を落としたのか、本当に落としたのかさえわからないため、当てもなく近所を歩いてみる。
一つ目の角を曲がり、空き地の前を通りかかると、最近懐いてくれた野良猫が寄ってきた。
「ごめんね、今日はお前と遊んでる暇はないんだよ。今落とし物を探しててね。」
と馬鹿丁寧に猫に説明したところでアホらしくなって、ぐりぐりと猫を撫で回してから再び歩き出した。猫は名残惜しそうに鳴いていたが、しばらくすると諦めたのか、十歩進んで振り返るともういなかった。
そもそもなぜ落とし物をしたと思ったのだろうか。
何の前触れもなく、昼寝をして起きたら唐突にこの感覚に襲われたのだからどうしようもない。
「ようちゃん」
ふいに名前を呼ばれて振り向くと、仕事帰りと思われる恋人が立っていた。
「何してるの?」と聞かれたので、落とし物をしたので探している旨を伝えた。ついでにいつどこで落としたのか、そもそも何を落としたのかすらわからないことも伝えた。恋人は、
「ふーん、夢でもみたんじゃないの?」と言いつつ、
「でも気になるねぇ。一体何を落としたんだろうねぇ。」と呑気な調子で答えた。
そのあまりにも呑気な様子を見て、なんだかすべてどうでもよくなってしまい、今日はもう落とし物探しはやめにして、近所の精肉店でコロッケを買って帰ることにした。
「ごめんね、落とし物探すのにいっぱいいっぱいで、夜ご飯作るのすっかり忘れてた。」
「別に気にしてないよ。それより、明日には見つかるといいね、その落とし物。」
「そうだね。見つかるといいんだけど。どうかな、見つかるかな。」
「ま、そのときがきたら自然と見つかるんじゃない?見つけたいと思えば探したらいいし、見つけたくないと思うなら探さなければいいし。」
そう言われて少し気が楽になった。
そこからは他愛もない話をしつつ、買ったコロッケのことを考えていたらいつの間にか家に着いていた。
とりあえず明日、もうちょっと落とし物を探してみようと思う。