小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

アノニマスアイデンティティ

INDEX|1ページ/12ページ|

次のページ
 
 今年は彼岸を過ぎてもなお暑い日が続いていた。しかし、十月に入ると矢庭に涼しい風が吹き始めた。つい先日まで、人々が残暑への恨みごとを挨拶代わりに言っていたのが嘘のようだ。
 ようやく訪れた秋の気配。思わず疾走したくなる清清しさに原口啓次はほっとする。正面から吹く風がいかにも涼しげに、肌にさらさらと襟口から脇へ流れていく。待ち遠しかった冬もすぐそこ。だが、啓次は冬が好きというわけではなかった。
 思索とは無縁に過ぎて行く怠惰な夏。日中は陽の強さに集中力が散乱し、夜は思考を遮る蒸し暑さのうえに落ち着く暇もなく短い。一方、長い夜をもたらす冬。暗くて冷たくて緊張感に満ちている。この季節であれば、静かに眠るような黙想の中で、自分という存在を再構築できるはず。昆虫であれば、蛹となって冬を越すような、再生を待つ深い眠り。
 それは半年前、同僚の女性、水谷鈴香に蛹の話を持ち出されて以来、次第に心に湧き起こってきた思いだった。
 うららかな春が訪れたときには、蛹の割れ目から濡れたやわらかな羽を抜き出し、徐々に伸ばして雄飛する。果たして自分は飛ぶに何不足ない羽を備えて羽化できるだろうか。
 迫りくる冬。それが啓次には灰色に濁って見えた。

 六畳間に唐突に破裂するような音が反響する。くしゃみだった。啓次の体が海老のように跳ねたかと思うと、座っていた椅子が大きく揺れ、キャスターがフローリングの床を大袈裟に叩く。
 思わずとじた眼をあけ、二度瞬きする。眼の前の三台並んだモニターの光が眼に入る。ある映像が流れ続ける右のモニターに焦点を合わせると、大きな滴が眼にとまった。鼻水か、唾か、真円の形で張り付いていた。
 ぷくっとしたまるい滴は、流れ落ちる様子もみせず、モニターの表面にとどまり続ける。そして中に虹が耀いて踊っている。
 しばらく眺め続けた。顔を上下左右に動かすと虹が滑る。鳩か鶏のように顔を動かし続けた。腰を曲げ、よく見ようと顔を前にせり出したところで、動きがはたととまった。近づくにつれ、レンズ型の滴の中に見えてきたのは虹ではなく、長方形の赤、緑、青の三色。
 左手を突き出すと、中指の腹で滴を押し潰し、邪険に拭った。モニター上に残ったのは、二本の線上のかすれた光。が、それもすぐに乾き、何事もなく三原色の混ざった光を発し続け、部屋の隅にいる彼の顔を白く無機的に照らしていた。
 モニターに映しだされているのは、監視カメラの映像。
 十九インチの画面が、中央から十字の形で四つのウィンドウに等しく分割され、四つの監視カメラの映像が映っている。監視カメラは啓次の住むビルに取り付けられているもの。ビルといっても、啓次の父が建てたこのビルは、四階建てのそれは小さな雑居ビルだった。一階は、テナントとして貸しているせせこましいコンビニがあるだけ。店の名は、地元民しか知らない、この区と隣の区に合わせて三店舗存在するだけのもの。品揃えもコンビニと呼んでいいか迷う形態。二階には賃貸ワンルームが二戸。三階と四階に啓次と両親は住んでいた。
 日曜日の今日、特別にすることはなかった。
 起きてすぐに屋上へ行き、ラジオ体操の真似事をする。ふと、コンクリート上に黒い蝶を見つけた。いつ死んだのか、種類もわからぬほどに翅がぼろぼろになっていた。啓次はそっとつまむと、大きめのプランターのところまで運び、近くにあったシャベルで土をひとすくいした。蝶をその小さな穴に入れ、蝶の姿が隠れるまで、さらさらと優しく土をふりかけると、ひとつため息をついた。
 自分の無気力さが、無言の圧力となって襲い掛かってくる。
「明日からは別な仕事も入る予定なのに、わざわざ運動したり、用事もないのに出かけちゃって体力をいたずらに消耗させるってどうだろうか」
 無気力に押し潰されまいとするなら、こんな言い訳が必要だった。
 遅めの朝食を摂って歯を磨けば、いよいよ手持ち無沙汰。大きなくしゃみがでたのは、いつも暇をもてあましたときのように、自室に行ってパソコンの電源を入れ、監視映像を眺めはじめたときだった。本格的な秋を告げる涼風に襟足をなでられ、鼻をくすぐられたらしい。
 椅子から立ち上がり、朝の空気を吸おうと今朝眼を覚ましたときにあけた窓をしめると、再び椅子の上で胡坐をかく。中央のモニターにブラウザ、左のモニターにメールソフトを立ち上げ、まずは着信メールをチェック。いつも利用している通販サイトからのメールがあるだけ。寝袋の注文確認……二割引の品で四千円あまり……? 注文したおぼえがない。日付は昨日の夕方。慌ててキャンセルすべく通販サイトにログインする。しかし、既に発送の準備に入っているとのことで、無慈悲にもキャンセル不可の表示を見せ付けた。

 土曜日の昨日、啓次は両親が外出した昼前から一人で缶ビール――契約社員の安給料の身では新ジャンルにして節約しているが――を呑みはじめた。両親のいないとき、しかもやっと爽やかになった休日に朝から家で気兼ねなく呑む。それは焦燥に焦げた心、前に進みたくても進まない、乾ききった広大な熱砂のなか空回りし続けるタイヤのように熱かった心を冷まし、休息を与えるにはうってつけの状況だった。
 ところでどこに向かってハンドルを切っているのか。そもそも目的地があるのかどうか。
 父が結婚した年齢は二八。かつて、できれば同じ歳くらいには結婚したいと考えていたときがあった。ある日気付けば三十歳になっていたが、なお悠長に、自分が生まれたときの父の年齢、三二歳までには結婚し、次男である自分は実家から独立し家庭を持っているだろうとさえ、根拠もないのに高を括って予想していた。
 会社は昨年やめた。過労死するかと思ったから。三ヶ月の休養ののち、いまは同じ会社に契約社員として再雇用されている身分。
「結婚なんてする余裕はしばらくありそうもないじゃないか」
 焦燥が、ある時から羞恥と見分けがつかなくなる。
 出遅れた感があるのは、一昨年と昨年にたて続けに近所の幼馴染が結婚して引っ越していったこと。二人とも次男だった。十年以上顔をあわせていないが、母から聞いて知った。
 棚にある、十年以上前に作ったオートバイのプラモデル。今では劣化し、ところどころひび割れている。
 啓次の心中には、毎日少しずつ落ちた欠片が鋭い角を持って散らばっている。
 三十歳代前半の男性の四割は結婚歴もなく、女性とつきあった経験も少ない。ネット上のあちこちのサイトに書かれた、事実なのかデマなのかわからない情報。
 欠片の角が不安定な色合いに鈍く光り、存在を誇示する。
 兄と自分を育て上げ、さらに小さいとはいえビルまで建てた充分に立派と言える両親。父は建築会社の営業マンとしての成功に裏打ちされた、自信に満ちた鷹揚な視線を送り、母は二人の子供に存分に愛情を注いできた自愛に満ちた視線を送る。欠片で屈折されるこれらの視線。啓次は憐れみのように曲解し、昨日缶ビールをひたすら呷った。
 缶ビールを一本手に取り、逆さまにしてゴクゴクと一気に呑み干す。テレビの映像や部屋に置かれた家具、壁にかかった絵などの視界にあるあらゆる物体の輪郭が曖昧になると同時に、日ごろ抱いた心のわだかまりまでもが曖昧になる素敵な酔い心地。