識別記号
僕の声は気付かれない。
「どうかしましたか」
ふるる、と彼女の頭が左右に揺れた。
「どうかしたって、何にも言ってないよ」
僕は出来るだけ面白がっている風な調子の声を出す。彼女にそんなトーンが通じるかどうかは分からなかったけれど、つい嘘をつく時の癖が出てしまう。
「でも、悲しそうな空気がしたので」
「弓亜の気のせいじゃないかな」
ふうん、と彼女はそれきり口を閉ざした。自分の気持ちを悟られなかったことに安心しながら、彼女の隣でいつものように本のページを捲る。タイトルと表紙のデザインが好みだったその本は、中身も期待できそうな雰囲気でスタートしている。話は、ある三人の女性の日記という形で綴られていた。三人がそれぞれ抱える思惑や食い違ってすれ違う様はこれを読んでいる読者にしか分からない。ただ、時間も多少前後するので読者すらも煙に巻かれてしまいそうなつくりになっていた。主要な登場人物の性別が同じなのも混乱するポイント、つまり作者の計算なのだろうな、と本の中身に夢中になっている自分の隅の方で冷めた気持ちで考えている自分がいる。
「……あの」
不意に彼女が声を発した。おずおず、と切り出しにくそうな声におやっと思いながら彼女を見遣る。
「あの、貴方は誰でしょうか」
ドキン、と心臓が跳ねた。嫌なものに触れてしまった時の音。失敗したのだと感じる音。失敗しているのは僕ではないし、そもそもこれは慣れきった質問なのに。
「僕だよ」
この言葉じゃ彼女は理解できないことも知っているのに、僕はいつもその質問にそう返してしまう。
行儀よく彼女の膝の上に組まれている手の片方を取り、親指の付け根のあたりを口に入れて、そのままぎゅっと噛みしめた。彼女が痛がらないぎりぎりの圧力の口づけも、今日で三回目。心の中でゆっくりと3つ数えた後、パッと口を開ける。汚れてしまった彼女の手をティッシュで拭いてやると、彼女はすかさず自分の手の甲をなぞった。僕がたった今つけた凹凸を細い指が何かを確かめるように動く。
「……ああ、珠鷹君ですね」
ホッとした笑みを彼女は空に向かって見せた。僕に笑いかけているんだろう。
君は僕を映さない。
君にはどんな音もどんな光も区別することはできなくて、触れることのできる形だけが唯一の記号。
「そうだよ」
僕は努めて明るい、嬉しそうな声を出した。それが彼女に伝わったのかそうでないのか、彼女も嬉しそうに何度もうなずく。
「珠鷹君の歯だ」
楽しそうな彼女の声に、見えていないとは知りつつも僕も首を縦に振る。
彼女には僕の声が分からない。聞いてもそれが僕なのか、見知らぬ誰かなのか、判別などできやしない。弓亜の世界には音も光も無価値なのだ。
開け放した窓から入ってくるそよ風が白いカーテンを重そうに揺らした。風の温度は分からない。もう少し冷たい風になったら、彼女の代わりに窓を閉めてやらなければならないな、とぼんやりと思った。
本の内容を真剣に吟味したり、風の温度なんかを気にしたり。
――ただ、この行動に注意を向けたくない。その言い訳を必死につくっているだけ。
人を区別するのには歯形がいい、と彼女は口癖のように言う。
「みんながみんな違う形をしているんですよ。お母さんは前歯のラインが丸いんです。この前触った花弁の形に似てたっけ。名前は忘れてしまったけれど、細かくてなだらかなフリルを撫でるみたいな感覚……」
「そう」
彼女はうっとりとした口調で僕に歯の話をする。自分の両手に何度も何度も刻まれた、僕には到底分からないたとえ話をお伽噺でも聞かせるように話すのだ。
「……僕は?」
「珠鷹君の歯は、珠鷹君以外の何でもありません。陳腐かしら。他に例えるものがないの。人差し指で一度触れるだけで分かっちゃうんです。これは珠鷹君だ。珠鷹君の前歯だ。珠鷹君の跡だって。どこも欠けてなくて、きちんとしてて……何にでも例えられそうで、何にもなれない、そんな感じです」
彼女は名残惜しそうに親指の付け根に触れた。
「ここに、ずうっと珠鷹君の跡がつけばいいのになって。ずっと思ってます。私、目は見えないし、声を聞いても分からないから」
彼女がにっこりと空に向かって微笑みかけた。ぶらり、と右腕が誰もいない場所へと放り出される。手の甲にうっすらと凹凸がついた腕は僕に向かって差し出されるはずなのに。彼女は平気な顔をして、そこに僕がいると確信して、愛しそうに僕の名を呼ぶ。
「ねえ、珠鷹君。噛みしめてください。私を。傷つけてもいいから」
「……いいよ」
考えたくなどない。だけど知っている。気付いている。
この跡は憎しみに似ている。
押し付けたその跡が元に戻る僅かな時間でしか僕を感じることのできない哀れな彼女を眺めながら、心の中でそれを認めた。
彼女は僕の悪意の塊を愛だと信じている。
光を感じることもできず、声なんて意味を為さない彼女の世界は、どうしようもなく歪で救うことはできない。恋人を傷つけさせる彼女を憎しみながらでないと自分を保てない僕は、ただただこの歪んだ繋がりをそのままにするしか、できなかった。間違っている、正しくないという叫びが胸の中でだけ響いて、薄れていく。
もう一度、と彼女が夢を見ているような声で傷を求めている。