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王の愛馬~熱砂は涙に濡れて~

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王の愛馬 


なぜ、こんなことになってしまったのか。
若き天才ジョッキー宮野葵は苦悶の表情を浮かべ、高い天井の模様を見つめていた。
美しいレリーフ模様は、いわゆるアラビア紋様というもので
草木をかたどった曲線の中心には、この王国のエンブレムが描かれている。
剣と馬。
それが、ここイシュバール王国の国章である。
イシュバール王国はアラビア種の馬の産地として有名で、
名馬を多く輩出している。

葵の愛馬であるイルバーノもそうだった。
しなやかな細身の体に艶やかな黒い毛。しかし目つきは鋭い、美しい雄馬だ。

「イルバーノ…」

ぽつりとつぶやいてみる。
男のそれとは思えないような蜜やかな声が響く。

「どうした」

葵の声に応えるかのように、シーク・ファシードが現れた。
イシュバール王国の首長であり、アラビア地方のホースレース界を統べる男である。

「……ファシード…」

葵はその硝子細工のような澄んだ瞳を憂いげに震わせ、
自分よりも数倍は上背のある男を見上げた。
この部屋には扉というものがない。
いくつかの天幕が柱と柱の間に垂らされている。

「余計なことは考えず、おまえは私との結婚のことだけ考えるんだ。
かわいい私の花嫁」

そう言うとファシードは葵の手を取り、指先に口づけを落とした。
褐色の肌に高い鼻筋、官能的な群青の瞳が葵を見つめる。
その目が何を思っているのか、葵にはわからなかった。
ファシードも葵も、紛れもない男性なのだ。
競馬騎手を目指して寄宿制の学校に入っていたころ、
何人かの同級生から交際を求められることはあったが
それらのどれにも応じたことはなかった。
かといって、小学生のころからがむしゃらに馬とだけ向き合ってきた葵にとって
女性を愛するという経験もなかった。
ある意味、貴重な存在といえるだろう。

「どうだ、今日の花嫁修業はどの程度できているのか
これから確かめてやろう」


◆ ◆ ◆


3ヵ月前―――

22歳の宮野葵は、若き天才競馬騎手として日本中を沸かしていた。
鳳凰杯、紫月杯、暁杯、主要カップをすべて制覇するという偉業を最年少で成し遂げ
イシュバール杯への切符を手に入れた。
イシュバール杯は葵の夢であり、最大の目標でもあった。
亡き父・宮野明は優秀な調教師として馬主の信頼も厚かった。
明が育てた馬のイルバーノは、かつてのイシュバール王国のシークから譲り受けた馬だったのだ。
明は死に際、まだ中学生の葵に「イルバーノでイシュバール杯へいけ」と告げた。
それが明の遺言となったのだ。
それから葵はがむしゃらに、真摯にイルバーノとともに走ってきた。
うしろを振り返ることはしなかった。
まるでイルバーノにも葵の意志が伝わっているかのように一致したふたりの呼吸が
見る者をさらに感嘆させた。
『史上最年少、美貌の天才ジョッキー宮野葵』
『美しい騎手、美しい名馬、宮野葵とイルバーノ、ついにイシュバール杯へ』
こうした見出しが連日踊っていた。


「ついにきたよ、父さん」

イシュバール国際空港のシートを踏んだ葵は、感慨深げにつぶやいた。
イルバーノは別便で輸送され、既にIIHG(イシュバールインターナショナルホースグラウンド)に
着いているころだろう。

「車は手配してありますので、すぐにホテルへ向かいましょう」

マネージャーの時田が腕時計を見ながら葵をうながす。
日本競馬会が葵につけたこの男は、敏腕だが常に時間に追われている。

空港前のロータリーへ着くと、何やら物々しい雰囲気が周囲を包んでいた。
何事かと案じる葵をよそに、時田は自らが手配した車を探そうとやきもきしている。

「…時間どおりなのになぜいないんだ。これだから外国は…」
「まあまあ…なんだか事件でもあったのかもしれませんよ。警察の人がたくさんいるみたいだし」

そのとき、白い長衣を着た男性ふたりが葵の前につかつかと歩いてきた。

「宮野葵様でいらっしゃいますか」

流暢な日本語を話すことに葵も時田も一瞬、驚いた顔を見せた。

「ええ、そうですが…あなたは…」
「シーク・ファシードの命でお迎えにあがりました」
「…は?」
「我々と一緒に来ていただきます。さあ、お荷物をお預かりいたします」
「ちょっと…待ってください。ぼくたちは来週開催されるイシュバール杯に出場するために
日本からやってきたんです。これからホテルへいって、IIHGへ…」
まくしたてるようにそう訴える時田に、長衣の男は笑顔で
「では、一度ホテルへお送り致しましょう。その後で宮殿へ向かっても、今夜の晩さん会には間に合うでしょう」
「きゅ、宮殿!? 晩さん会!?」
「いったい…何が何やら…。どうしましょう、時田さん」
葵が困惑していると、背後から「おーい!」と叫ぶ声が聞こえてきた。
そこには見慣れた顔があった。
在駐イシュバール大使の大徳寺だ。
「ああっ大徳寺さん! ちょっと助けてください!」
時田が涙目で訴える。
「やあやあ、すまないねきみたち! いきなりのことで驚いただろう」
「この人たちは…いったい…」
「彼らはイシュバール王国のシーク・ファシード宮殿の者たちだ。決して妖しい者ではない。
それで、きみたちはこれから王宮に滞在させていただくことになった」
「ええ!?」
「シーク・ファシードたっての御申し出だ。断るわけにはいかん。それに、こんな名誉なことはないぞ」
たしかに名誉なことだが、いったいなぜいきなりそんなことになっているのだ。
「私も同行するから、事情は車の中で話そう。
手間をかけてすまなかったな、ラシフ」
「…いえ」
大徳寺が声をかけると、ラシフと呼ばれた男はうつむき加減で葵たちを車へと案内した。

「すまなかったね、いきなりのことで。
葵くんもよく知っているだろうが、シーク・ファシードは中東の競走馬界の第一人者だ。
かねてよりきみの活躍をよく知っていて」
「え…シークが、ぼくのことを…?」
「ああ、早く会いたいと言っていた。今回のことも非常に喜んでおられたぞ」
シークが自分のことを。
葵はこみ上げてくる感動に目頭を熱くした。
ファシードは自分の父が、かつてのシークから馬を譲り受けたということを知っているのだろうか。


宮殿に到着した葵を待ち受けていたのは、信じられない光景だった。
広大な敷地の中にそびえ立つモスク、球状の屋根を戴くいくつもの建物や
アラビア建築の象徴である泉。
すべてが美しく、珍しく、葵は大きな瞳をくるくると動かせてラシフの後をついていった。
宮殿へついてからも車をいくつか乗り継いだ。
その間にいくつものセキュリティーが存在し、葵はこの宮殿の、何よりファシードの力の大きさを知った。
これからファシードに会うのかという実感がまだわかなかった。

「シーク・ファシード、葵様をお連れ致しました」

大きな扉の前に設けられたセキュリティーパネルを操作し、
ラシフは中にいるであろうファシードに話しかけた。
応答はなかったが、軽快な電子音とともに扉が開けられた。

そこで目の当たりにした光景は、驚くべきものだった。
毛の長い絨毯の中央に座するのは、おそらくシーク・ファシードであろう男性で、