逢魔
これは私が小学生の時の話だ。
その日、私は風邪を引いて学校を休んでいた。前日に水風船で遊んでいて水浸しになったから、というのが理由だったと思う。
しかし、昼からは体調も治りむしろ暇をもてあましていた。母親は町内会の会合に出かけてしまい夜まで帰ってこない。テレビも、やっているのは面白くないワイドショーばかりで見る気はしなかった。
仕方ないので私は自分の部屋に戻り布団に入った。家の中を立ち歩いて、また少々具合が悪くなってきたというのもあった。
どれくらいうとうととしていたかわからないが、気がつけばあたりは薄闇に包まれていた。暗い朱色が窓から差している。
階下では歩き回る音。
多分、私は玄関のドアを開ける音で眠りから覚めたのだろう。起きる前、ばたん、という音を聞いた気がした。
姉が帰ってきたのだろう。ぼんやりした頭で私は考えた。
姉は私の二つ上で、中学校に通っていた。快活で優しくて、私の自慢の姉だった。当時の友達は皆、私のことを羨ましがったものだ。皆の羨望の目が、子供ながらに心地よかったのを覚えている。
ふと時計を見ると、時刻は十七時を少し過ぎたあたりを指していた。
――あれ?
そこで、私は少し不思議に思った。なぜなら姉はその日、部活があったからである。朝、出がけに、早く帰ってこれなくてごめん、と姉は謝ったのだ。
姉は陸上部である。夏の、日が長い時期だ。おかしい。この季節、部活があるとき姉は大体十八時過ぎに帰ってくる。
もしかして泥棒だろうか。私の心には恐怖が差し込み始めていた。が、階段を上ってくる音で私はそれが杞憂だと気づいた。とん、とん、という軽い音。耳慣れた足音。ずっと同じ家に住んでいれば、誰が上ってくる足音かはすぐにわかる。それは、確かに姉の足音だった。
「お姉ちゃん、おかえり。」
安心して私は姉に声をかけた。しかし声は返ってこなかった。そしてそのまま、ばたん、という音がドア越しに聞こえてきた。
どうしたんだろうと思った。姉がただいまの挨拶を返してくれないのは、非常に珍しいことだった。
――もしかしてお姉ちゃんも具合が悪いのかな。
――だから早く返ってきたのかな。
私は布団から起きあがり、部屋を出た。そして今しがた閉められたばかりのドアを控えめにノックする。しかし、返答は返ってこない。
「お姉ちゃん? どうしたの? 具合悪いの? 開けてもいい?」
矢継ぎ早に私は問いかけ、答えを待たずにドアを開けた。もしかしたら自分の風邪が移ったのかもしれない。その思いでいっぱいだった。
姉は制服も脱がず、ベッドに俯せになっていた。
やはり体調が悪いのか。
私は姉に駆け寄った。
「お姉ちゃん大丈夫?」
それでも、姉は答えなかった。
私はどうしたものかと焦ってしまった。母親は夜中まで帰ってこない。父が帰ってくるのも、後二時間は先である。
混乱した頭で私はしばらく考えていた。姉は、その間中ぴくりとも動かなかった。
――とりあえずお父さんに電話しよう。
そう考えつくまで、それでも五分くらいだったろうか。幼い私には、その五分が随分と長い時間に感じられた。
「ちょっと待っててね、お姉ちゃん。」
そう言って部屋を出ようとしたとき、ちょうど下で、ピンポォン、というインターホンの音が鳴った。
誰が来たのだろう。もしかして、母が早く返ってきたのかもしれない。
「お姉ちゃん、お母さんかも!」
私は喜んだ声で姉に言い、ととと、と階段を下りた。
「お母さん?」
玄関は階段を下りてすぐなので、そのまま、はやる声で私は玄関の人に尋ねた。ともかく、姉の大事を伝えなければという思いでいっぱいだったのだ。
「何言ってるの。お母さん今日遅いでしょ?」
しかし、返ってきた声は、母のものではなかった。私は、え、とだけしか言うことができなかった。
おかしい。それは、おかしい。
急すぎて、そのことを完全に理解していたわけではなかったのだろうが、私は訳がわからずに戸惑っていた。
躊躇していると、さらにドアの向こうから声がする。
「みさ、早く開けて。私今日カギ持ってくの忘れちゃったの。」
声に促されるように、私はカチャリと鍵を回す。
開いたドアの向こうにいたのは、ジャージを着た姉だった。その声も姿も、間違いようもなく、私の自慢の、姉だった。
「どうしたの? そんなに驚いた顔して?」
その姉の言葉を呆然と聞きながら、私は思わず、しかしゆっくりと振り返った。後ろから、 ギッ、とドアが開く音が聞こえたからだ。
階上には、姉が立っていた。いや、姉と似たものが、立っていた。
それは私を見て、ふふふ、と笑い、消えた。
あの後、私は姉と二人でおそるおそる二階に上がったが、もちろん、誰がいた形跡もなかった。ベッドにも、横になった跡はなかった。
以来、私はそれを見ていない。
一人で家に残されることを極端に嫌がり、極力そのような事態を避けるようになったからかもしれないし、もしくはあれは、一度現れたところには二度と現れない類のものなのかもしれない。
しかしたまに、もしかしたらあれは私のごく近くにいるのかもしれない、と考えるときがある。
姉は時々、ふふふ、と笑う。