いのせんす
ねぇ、きいて。
ぼくにはお母さんがいない。お父さんもいない。二つまえの秋にヨリコさんが教えてくれたんだ。あ、ヨリコさんのことはないしょだよ。
ぼくはこの家の前にすてられていたんだって。白くて、何もなくて、窓もないなんてちょっとおかしな家だねってさとし君は言ってたけど、そうなのかな。ぼくはよくわからない。
さとし君はぼくのともだちで、たまに来てくれたんだ。そのときはごはんも持ってきてくれる。あんまりおいしくなくてごめんねってさとし君は言うけど、やっぱりぼくにはわからない。“おいしい”ってなんだろう。
そうなんだ。さとし君は、たまにぼくがわからないことを言う。
「お母さんがいないなんてかわいそうだね」
「ここから出られないなんて、つまらないよね。」
「他にだれもいなくて、さびしくならない?」
“かわいそう”ってなんだろう。
“つまらない”ってなんだろう。
“さびしい”って、なんだろう。
よく、わからない。
そう言うと、さとし君はへんな顔をする。なんて言えばいいのかな。口をきゅっとして、鼻をひくひくさせて、目には水がにじむんだ。それ何って聞いたら、なみだって言うんだよって教えてくれた。
なみだ。ぼくの目からも出てくるのかなってきいたら、さとし君は、もちろんって言ってくれた。
そういえば、ぼくには一つだけわかることがあるんだよ。さとし君は、それは“たのしい”だよって言ってた。おっぱいのあたりがわくわくとうごいて、顔があつくなって、声を出したくなるんだ。
ぼくにはお母さんもお父さんもいないけど、この家で育ててくれた人がいる。さっきないしょって言った、ヨリコさん。さとし君にも教えてなかったんだよ。ヨリコさんが教えなくていいって言うから。あのドアの、そのまた向こうのドアにいるんだ。そこには大きな木があって、今ははっぱが黄色になってるよ。
ヨリコさんと会うと、ぼくは“たのしく”なるんだ。
さとし君がこないときは、ヨリコさんがごはんを食べさせてくれる。そして、ヨリコさんはシっていうものを教えてくれる。大きな木の下で。
「あきのひの ビオロンのためいきの 身にしみて ひたぶるにうらかなし」
がいこくの人のかいたシなんだって。ヨリコさんはいつもこのシしか読んでくれないから、だいたいおぼえちゃった。でも、なんだかよくわからないんだ。ふふふ、ないしょだよ。
シの時間がおわったら、ぼくはヨリコさんとあそびをする。それはすごくたのしくて、だからぼくは“たのしい”っていうのがどういうのかわかるんだ。
あそびが終わったら、ヨリコさんはうごかなくなっちゃう。おなかから赤くてどろどろしたものを出して、びくびく、ってなってる。でもだいじょうぶ。ぼくがドアの向こうで待ってたら、新しいヨリコさんが来てくれるから。そしてうごかないヨリコさんをドアの向こうに持って行って、床に広がるどろどろをそうじするんだ。何もなくなってきれいになったら、ヨリコさんはぼくをほめるよ。「うまくなったね」って。
ぼくはそれをきくと、またおっぱいのあたりがわくわくして、顔があつくなって、声を出したくなるんだ。
前にね、さとし君ともあそんだんだよ。だってヨリコさんが、さとし君とあそんでいいっていうから。ずっとダメって言ってたんだけど、だいぶうまくなったからって。
さとし君はね、やっぱり赤いどろどろを出して、びくびく、ってなったよ。でもね、新しいさとし君はいつまでまっても来なかったんだ。ヨリコさんがうごかないさとし君を持って行ってからもずっとずっと待っていたのに、来なかった。
ぼく、なんだかむねのあたりがぎゅってなって、なみだが出てきた。さとし君が言ったとおり、ぼくにもなみだはあったんだ。教えてあげたかったのにな。
今日君がきてくれたときも、なみだが出てきたんだ。ぼくの目、水が出てたでしょ。それ、なみだって言うんだ。君もでるのかな。でもね、前とちょっとちがうのは、やっぱりむねのあたりがぎゅってなったんだけど、わくわくとうごいてもいたんだよ。
ヨリコさんがね、言ってくれたんだ。まただれか来たら、その人とはすぐにあそんでいいよって。ぼく、“たのしい”のは“たのしい”んだ。
ね。だから。だからさ。
あそぼう。