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和尚さんの法話 「死者と仏事」

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「世尊よこの閻浮提は行善の人すら臨命終のとき百千悪道の鬼神有りて」

つまり悪霊ですね。それが誘いにくるんですね。

悪い所へ引っ張って自1分の仲間を増やそうということで、悪道へ誘い込むというのですね。

先に死んだ親族の姿に現れてきたり、先に死んだ親戚知人の姿に現れてきたりということがあるというのです。

善人でもそうなんだ、いわんや悪人は猶の事であると。



「各の如き男子、女人、臨命終のとき心識昏昧にして善悪をわきまえず」

心識というのは霊魂のことですね。意識のことです。

意識が昏昧してきて善悪の分別、常識が失われる。

ですから正しい分別ができないんですね。

正念が失われているから正しい判断ができない。




「乃至、更に見聞無し」

目はぼうっとうつろに開いてるけど実際は見えていない。

耳は聞こえていない。

精神がもうろくになっているんですね。




「この諸の眷属」

その死んでいく人の縁者ですね。家族。

そういう人たちが、

「將にすべからく大供養を設け尊形を転読し菩薩の名号を念ずべし」

この場合の菩薩といってるのは、お地蔵様のことです。

この場合はお地蔵様の名を称えよといってるんですね。

この心でいく人の耳元で、南無地蔵大菩薩と念じなさいと。



「各の如き善縁をもってよく亡者をして諸の悪道を離れて所間鬼神をして事如く退散せしめん。」

そういうことのためにお経を読むんです。これから死んでいくというときにね。

死んでしまったらもうお経を読んでも、もうその人は悪道へ引っ張られたあとかもしれないから。

この経文の意味からするとそういうことになってきますね。

そういう恐れがあるから供養をしなさい、仏を念じなさい菩薩を念じなさいといってるんですからね。

もう死んでしまったら、既に遅いということもあるわけです。

「臨命終の人あらんに渦中の眷属この病人のために口承に一仏の名を念ぜば、この命終の人五無限の罪を除きて余の業報悉く生滅することを得ん。」

たとえば、今死んでいくというその人の枕元で南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・と、鐘を叩いてもかまわないんですよ。

近所の人はもうあの人は死んだんだろうかと思うかもしれませんけれども、息の或るうちに称えよといってるんですね。

そうしたら、無間地獄に落ちるような罪があっても落ちずにすむということです。



「この五無間の罪、至りて獄中にして」

無間地獄というのは、五つの段階のことなんですが、その無間というのが一番、地獄の底の底の深いところなんですよね。



「ともすれば億劫を経て終に出ことを得ずといえども臨命終のときその為に仏名を称することにその功徳を受け、その罪消滅す」

そこへ落ちたらもう億劫という間ですね。みなさん、億劫だといいますがその億劫なんです。

一劫でも無間のj間といいますがその億の劫だというのです。



以前にも劫のお話をしましたが、初めての方もいらっしゃいますのでお話をしますが、四十里四方の真四角の石があると仮定して、百年の一度天人が天から降りてきて、そしてその石の上を羽衣ですっていくのです。

百年ごとに降りてきて、そしてその石が磨り減った時間が一劫というのです。

それの億劫ですから、無間の時間ですね。

ややもすればその無間の地獄へ落ちたら、それだけ長い時間苦しみを受けなければならんということです。

臨終のときに仏名を称えたらその罪は消滅するということです。

そういうことのために昔は和尚さんに早く来てください、息を引き取ったらおそいので早く来てくださいといったわけです。

こういうお経を信じた人はみなそうしたわけです。

和尚さんの檀家さんに一人そういう人がいたそうです。


その人のお母さんが、自分が死ぬときは、死なないうちに来てくださいよと、いつも和尚さんに言っていたそうです。

それでそのお母さんが死ぬときに家族の人が和尚さんを呼びにきて行ったんですが、もう意識がなかったそうです。

そこへ医者が来てびっくりしていたそうです。

なんと手回しのいい、坊さんが先に来ているということでね。

ですので和尚さんは、心で念じてお経を称えたそうです。


それからその人は意識が戻ったんです。

これはお経の功徳かなにかわかりませんがね。

それから何年か生きたそうです。



「若し、未来現在の諸の衆生、臨命終のときに地蔵菩薩の名を聞くことを得て」

臨終のときにお地蔵さんの名を称えているなと、耳に入ったんですね。

「この諸の衆生長く三悪道の苦を得ず」

地獄、餓鬼、畜生に落ちない。

お地蔵さんと聞いただけで落ちない。



「如何に況や臨命終のとき父母眷属等この命終の人の家宅、財物、衣服等をもって地蔵の形像を塑画し」

家や財物をみな売ってお金に換えて、そのお金でお地蔵さんの像を作ったりお地蔵さんの画像を描いたりしてもらって供養をする。

その死んでいく人のためにね。



「或は病人をして未だ終わらざるとき(つまり臨命終のとき)或は見聞せしめる」
着物とか物でしたら持ってきてこれはお前のものだろうと言えますね、或は見せる。

これをお前のためにこれを売って、そしてお地蔵さんの像を作らせてもらうぞと、お地蔵さんの絵を描いてもらうぞと言うて聞かしめるということです。


『供養』

「舎宅、財物等をもって自身のため地蔵菩薩の形像を塑画することによって」

これはお前のためだぞと、家族が勝手にするんじゃないんだ、お前の供養のためにお地蔵さんを作り、お地蔵さんを描くんだぞということを、よく認識させるということです。



「この人、若し業報にして当に重病を受くべきものならんもこの功徳を受けて寿命が延びる」

本来ならば死ぬところだけれども、それをしてもらったがために助かる。

と、いうこともあるということですね。

これの実際のことを紹介を致しますが、現にそういうことがあるのです。




「若しこの人、業報にして命尽きて当に悪道に出すべきものならんも、この功徳を受けて命終の後、即ち人天に生ずることを得て諸の罪消滅するに至る」

人間に生まれるか、場合によっては天上界へ生まれるか。

信仰実話全集という本があるのですが、この中にこういうお話があるので紹介をします。



江戸時代の終わりごろに臨済宗の誠拙(せいせつ)という人のことなんですが、
江戸のある豪商の一人娘が大病にかかり、金に任せて医薬やら祈祷やら百方手を尽くしたが一向、貢献がなく娘はいよいよ命旦夕(たんせき)に迫った。
(臨命終ですね)時に、円覚寺、誠拙は生き仏様だということを聞いたその金持ちは、早速金で和尚を迎えた。

娘の命の助かるように祈願を願った。

よしよし、ありがたい手法をしてやるぞ。

しかしお布施は前金だぞ。

俺は後金というやつが嫌いでな。

へえへえかしこまりました。

この娘の命さえ助かることでしたら、身代半分無くしたってかまやしません。

そうか。そんなにたくさんはいらんが、金子百両に米百俵、それをすぐに円覚寺に送り届けよ。