瞳女
「こんにちは」
雨の中、バスの停留所で座っている少女に声をかけた。
少女の髪は長く、片眼はそれで隠れていた。白磁を思わせる滑らかで艶やかな肌。無表情な顔。すらりと伸びた指。雨に濡れ、しとやかな光沢を帯びているかのようだった。
――どうして私は声をかけたんだろう
す、と見上げる少女を見て、私は思う。私は、最初から彼女に声をかけようと思ったわけではなかったはずだ。
曇りがちな空を眺め、傘を持っていこうか迷い、結局持たずに出た。歩いている途中でふと息を吸い込むと、雨の匂いがした。途端に降り出す。
走ってバス停へと急いだ。濡れるのも良い、そうも思った。
バス停には少女がいた。ここらでは見かけたことがない。
年甲斐もなく、胸の鼓動が早まった。そうだ。だから私は彼女に声をかけたのだ。
娘ほども離れた彼女とどうかなろうと思ったわけではない。ただ、この胸の鼓動に、久しぶりに感じたこの力強い拍動に抗えなかった。
無視をされようとも、怪訝に思われようとも。
しかし、彼女は静かにこちらを見上げ、私をじっと見ている。
さらに鼓動が早くなる。
同時に、言いようのない不安がどこかで鎌首をもたげた。
彼女はなおも黙ったままこちらを見ている。
「ここらへんでは見ない顔だね。」
当たり障りのないことを話す。話しかけたのは衝動的なものだから、何か話題があるわけではない。
「……どうして」
しかし少女はそれに答えず、そう言った。細い銀の糸を爪弾くような、小さい、だが玲瓏な声。それは私を不安にさせた。胸の高揚の隙間をぬって差し込む、懸念。
――これはなんだろう
断続的に訪れる胸騒ぎに疑問を覚える。どうして私はこんなにも不安なのだろう。恐れているのだろう。
――恐れている
私は恐れているのだろうか。何を恐れているのだろうか。目の前には西洋人形のように座る少女しかいないと言うのに。表情の動かないその美しさはなおも増し続け、すでに私は目を離せなくなっていた。
「どうして」
少女はなおも私に問いかける。
目を離せない。少女の眼から視線を逸らすことができない。
鼓動が早くなる。音が身体を裂いて、少女にまで届いているのではないか。
狭い停留場の中は、私の心臓でいっぱいになっている。
つ、と少女が立ち上がる。その所作までも美しく、顔が引きつる。
そう、今ならはっきりとわかる。
私は彼女が恐ろしい。
この胸の拍動は、恋慕などではなかった。
「どうして」
私は答えることができない。答え方が、わからない。口を開いても無駄に息が漏れるだけで、明確な音が結ばれない。
私は眼を、離せない。
少女が目の前にいる。
髪の隙間から、見えない右目が見える。
口の端が、つ、と上がる。
逃れられない。
眼が、私を見ている。
その眼が。