氷夢
できた、と私は呟いていた。
いつの間にかストーブも消えてしまって部屋の中は寒くなっている。灯油が切れてしまったらしい。長く吐いた息が白い。
窓から零れる陽の光が、すでに夜が明けてしまっていることを教えていた。立ち上がり、ブラインドを開ける。外には白銀の雪が降り積もっていた。真新しい氷柱が一つ、煌めいている。光に手をかざす。暖かくはなかった。
昨夜から、私はいくつかの短い物語を書いていた。
魔性に魅入り恐怖と慕情を取り違えた男の話。
死に際、ともに淵にいる妻に死へと引き込まれる男の話。
閉ざされた家で育ち、感情を知らず、死を振りかざす子供の話。
他にも何篇か、思いつくままに筆を進めてきた。身の内からわき上がる衝動をそのまま形にしたものだ。
私は、小さい頃から小説家になりたかった。本の中から飛び出る様々な出来事に魅せられ、楽しみ、いつか自分も小さな世界を作ろうと、そう思っていた。
しかし高校を出て、大学を卒業し、気がつけば私は地方の小さな企業に勤めていた。次々と社会に出て行く友人達。いつまでも小言を言い続ける親。世間は、ただ無闇に書き続ける私を許さなかった。私は、抗えなかった。
いや、それもきっとただの言い訳にしかならないのだろう。どのような状況でも、なると決めた人は何ものかになれるはずだ。屈辱に身を震わせながらも、それを糧として突き進むはずだ。
気がつけば、私は小説家になることを諦めていた。戯れに何かを書き付けることもあったが、それだけだ。私はすでに働くことに慣れていた。その間に、結婚もした。妻は、同じ会社の後輩だった。私はそんな生活を、楽しんでいた。
昨日のことだ。
ごうごうと吹きつける雪の音を横に、私は妻とニュースを見ていた。そして、私はあるニュースの内容と画に鈍器で殴られたような衝撃を覚えた。そこには大学時代、私が最も忌み嫌っていた男がいた。軽薄で野蛮で、人間の屑と言っても過言ではない男。それが、さる有名な文学の賞を取っていた。いやらしい、作った笑みで、コメントを吐いていた。
どうして、どうしてあの屑があんな賞を取れるというのだろう。大学時代、暇にあかせては女と賭け事にうつつを抜かしていたような奴である。金がないから貸してくれと、ヘラヘラ笑いながら私の金を無理矢理奪い取っていった奴である。
どうして、あんな奴が。
あいつに、一体何が書けるというのだ。
私は、無性に腹が立った。
あいつが取れるくらいの賞を、私が取れないわけがない。きっとあの屑は何か汚い計らいをしてかすめ取ったに違いない。私は、あいつよりもずっとずっと長い間、書き続けてきたのだ。あんな屑に、私の人生を否定されてなるものか。
横でそれを見続ける妻をおいて、私は自分の部屋へと戻りパソコンの電源をつけた。激しい怒りが、私を創作へと掻き立てていた。
信じられないほどに、キーボードをたたく手がすすんだ。どろどろ溜まっていたものがあふれ出るような感覚だった。
なんだろう、この高揚感は。
なんだろう、この充足感は。
私は悦に入った。今なら、どんな物語でも書けると、そう思った。
そのまま次の作品を書いていると、妻が部屋に入ってきた。
何してるの。そう、妻は聞いた。
私は、小説を書いていると言った。そして、明日から会社を辞めて、小説を書くことに専念するとも言った。
妻は初め、笑った。何を言ってるの、と。あなたにそんなもの書けるわけないでしょ、と。会社を辞める。何を馬鹿なことを言っているの、と。
しかし私がいつまでもその言を撤回しないのが分かると、途端にものすごい剣幕でぎゃあぎゃあと喚きだした。
何考えてるの。あなたが今会社を辞めたらどうすんのよ。私もう働いてないのよ。お金は。私にパートに出ろと言うの。あんたに書けるわけないでしょ。あんたに。
うるさい。
うるさいうるさい。
この女は、こんなにも喧しいものだったろうか。どうして、人の作品も読まずに書けるはずがないと断言するのか。こんなに、頭の悪い、醜い女だったのか。
私の妻は、もっと優しくて、理解力があって、美しい。
私の妻は。
昨夜はついかっとなってしまった。
私は思い返す。きっと妻も、急で驚いたに違いない。確かにあんなことをいきなり言われたら冷静な反応もできないだろう。そして、それは私も同じだ。夜の愚考とはよく言ったものだ。
しかし、朝まで書き続けてみて、それもわかった上で、私の思いは変わらなかった。私はやはり小説家への道を邁進するしかないのだ。それが、私の本来の道であるし、定められた道であるし、新しい道なのだ。今まで辿ってきたのはまやかしである。
妻も、分かってくれるだろう。昨日の女ではなく、私の妻は、私のこの思いを分かってくれるに違いない。出来上がったこの作品たちを見れば、きっと。
私は階下へ降り、外へ出た。長靴を履いて、コートは着ずに。早く妻に見せなくては。私の気は急いていた。
昨日つけた足跡がもう微かにしか見えない。雪は、夜明け前まで降っていた。
足を濡らしながら、私は雪を掻き分ける。氷柱の場所まで、掻き分ける。
「どうだい、見てごらんよ。良くできてるだろう。君も、わかってくれるだろう？」
妻は、微笑んでいる。陽光に照らされながら、凍てついた頬で、笑っている。
笑っている笑っている笑っている笑っている。
ほら、やっぱりだ。昨日捨てた女は、ちゃんと妻に戻っているじゃないか。こんなにも、私の作品を喜んでくれるじゃないか。
これからは自分の信じた道を進んでいくよ。苦労をかけるかもしれないが、少しの間辛抱してくれ。すぐに、大作家になるから。
そうか。ありがとう。
一緒にがんばろう。
愛してるよ。