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下村ちづる
下村ちづる
novelistID. 31309
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しおり泥棒 その2

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まず襲うのが内臓の空虚だ。すうっ、とまるで日なたから濃い影へ物体が溶け込んでいくように、身体の内側が精気を失っていく。あ、これはまずいな。その現象が始まると私は冷静に思う。だが、シャワーを浴びている真っ最中だった。まだ大丈夫だ、そう思い直す。
 気力を持ち直すために、思考する。何故シャワーを浴びているかということを。明け方に眠り、午前中に一度目を覚まし用を足したが、その後結局寝床に戻り夕方まで眠り続けた。本格的に起き上がったのは寝床から見える空がやうやう菫色になり始める頃だった。
 1Kのアパート、浴室前にある洗面台の鏡の前に立てば、生気のない自分の顔が映った。身体の至るところの毛が伸びている。我ながらみっともないと思うが、自分らしいとも思う。寝汗を流すために、服を脱ぎ浴室へ入った。そう、寝汗を流すためにシャワーを浴びたのだ。理由なんぞ一文や一言で片づいてしまうのに、どうしても無駄に物事を順番に並べてしまう癖がある。
 空虚が身体の内側のすべてを支配すると、無線で使われそうな信号音が響き始める。耳鳴り。その音はなんとなく蛍光灯のような光を持っているイメージがある。だんだんそれが大きくなると、今度は頭の内側に身体の時とは桁違いの速さで空虚が襲ってくる。意識が剥脱されていく。眩暈。
 これはとうとう不味い、と思いシャワーを止め、浴室を出、どうにかして身体を拭き下着を身に着けてから、一歩足を踏み出した。瞬間、バランスが崩れた。
咄嗟に手を伸ばした先は炊飯器やらポットやらが置いてあるアルミ製のラックで、足下が崩れると同時に肘を打った。痛い、とは思ったがどうすることもできそうになかった。既に指先が痺れはじめている。
 私はその場で横たわることにした。きちんと拭ききれていなかったので洗ったばかりの身体に床の砂埃が付着した。最後に掃除したのはいつなのかまったく覚えていない。床やラック下の隙間、台所の隅や角、あらゆるところに埃や髪の毛が落ちては溜まり、蔓延(はびこ)っている。掃除しなければ、と思う不快さであるのだが、腕がしびれて意識が朦朧としはじめている状態ではどうすることもできない。
 目を閉じることにした。起き上がるのも、億劫になってしまった。しばらく眠れば、この貧血もいつものように通り過ぎていくだろう。埃が溜まっているくせに角や隙間から吹いてくる風は、火照った身体の何の気休めにならなかった。

 何かが煮えている音で目が覚めた。インスタントラーメンの、小麦粉の匂いがする。
 その方向へ顔を向けると、よく知れた男の踵が見えた。別に踵を知っているわけではない。どちらかというと纏っている雰囲気で誰か認識した。保田だ。
 「やっと起きたか」上から、陽気な声が降ってきた。「相変わらず不用心だなぁ。鍵開けっぱなしだったよ」
 「閉めたつもりだったが」
 「寝ぼけてたんじゃない?ラーメン食べる?」
 「ああ…」
 身体を起こすとまた眩暈がしたが、よくあることなのできちんと起き上がる。そういえば下着だけしか身に着けていないと思い、Tシャツとハーフパンツを身に着けた。
 保田とは同じ大学で同じ学年である。学部は違うが、アパートが隣同士であるためなのか、というか向こうがしょっちゅうちょっかいをかけてくるからなのだろう、何かと交流が多い。こちらの部屋の鍵さえ開いていれば(大学へ通うためこのアパートで一人暮らしを始めたのだが、何かと開けっぱなしにしてしまうことが増えたようだ)、本を読んでいようが先程のように貧血で倒れていようがやって来る。当初はそんな保田の強引かつあっけからんすぎる行動に度肝を抜かれ続けていたが、いまとなっては慣れてしまった。ただひたすらに明るい。これは初めて会った時と変わらない彼の印象である。
 「何か他に欲しいものある?」保田が嬉々として訊ねる。
 「ラーメンだけでいい」
 「駄目だよ、ちゃんと食べなきゃ。そこで倒れてたのも貧血だったからでしょ?」
 「そうだが、美樹さんは、」美樹さんとは、保田の同棲相手である。
 「アイツもう寝たよ。いま何時だと思ってんの?」
 リビングへ行き床に横たわっている携帯で確認するともう深夜の一時を回ろうとしている。 「ほんとうだ」
 「でしょ?」と、保田は丼にラーメンと、いつ拵えたのか炒めた野菜を盛りつけた。私はリビングのおおよそ中心にある卓についた。
 「お前は眠たくないのか」
 「別に。明日バイトもないし」
 控えめな音を立て、丼が置かれた。そういえば箸を準備するのを忘れたと思い立とうとしたら
 「ん」
 保田が笑って差し出してくれた。
 私と保田は正反対だ。見た目や性格や友人の数、恋人の有無など、何もかも。だのに上手く関係を保っていると私は思う。それはお互いまったく正反対だからこそ作り出されるちょうどよい距離感なのか、あるいはお互いまったく相手に無関心だからそれ以上の関係を作り上げていないだけの怠惰なのかわからないが。とにかく保田といる時は幾分か気分が良くなる。それは彼とは正反対に私には友人と呼べる人間が手で数えるほどもいないからかもしれない。保田は数少ない私の友人であった。
 塩味のラーメンは少し味を薄められていたが、実はこのくらいがちょうどいいとわかる美味しさであった。
 保田は何か食わなくても良いのか、と訊くと、いま何時だと思ってんの?と再び明るく返された。その顔には、笑みしかなかった。
作品名:しおり泥棒 その2 作家名:下村ちづる