河 (二章)
二章
天から舞い降りる一滴の雨粒は、精子のように母なる大地へと、着床し、胎児を授かった様に大地の土の中でじっくりと時間をかけ、這い出るように、徐々に淡水となり、遂に純粋無垢な淡水となって地表へ現れ、沢へと向かう。沢では淡水は子供のように、大きな岩と岩とを、まるでアスレチックの様なものではしゃぎ遊かのように、天真爛漫にバシャバシャと音をたてながら駆け下る。岩々は己の身を削りながら、純粋な淡水の流れ道を作り、誘導する様は、まるで保母達のようで、時には滝から叩き落とす様は躾のようでもある。
中流まで来ると、純粋だった淡水も様々な物質に染まり始め、時には反抗期を迎えたかのように洪水や氾濫を犯し始める。
やがて様々な見聞を蓄えたかの様に、様々なものに染まり、始め透明で純水な無垢の淡水は長い旅路を終え、遂に濁り水となって、穏やかに下流の河へ流れ着く。その先はさらに様々な未知の物質を含んだ大海へと繋がり、すなわち河水の淡水は、塩分という辛い海水を含んだ「大人」の世界へ放り投げ出されるのである。私は日が落ちるのを眺めつつ、数キロ先の大海へと向かう河の河水を目前にし、見送るように、そこに居座っていた。目前の河を流れる河水の姿は、十七の私にとって分相応だ。私の人生において、河に例えるならここが私の位置する所。下流の末端に近い場所。左を見れば東京湾に当たり、今眼前に流れる河水は、いずれ湾の中で河の淡水と海水と入り乱れ、やがて海水となり「大人」になるのだ。それを想像するとやり切れなさで頭が一杯になった。その時、ふと時間というものが頭をよぎった、時間は不可逆で、河も同じように遡及出来ない。心の中で、「お前らはいずれ波に弾かれ、潮に揉まれるんだぞ!もうここへは戻れないんだ、それでも海原へと向かうのか?」私は数時間前の過去の出来事を過去にする事が出来ないのに、河を流れる河水が、大海という未来へ向かう益荒男の様な姿は、私に大きなジレンマを与えた。井の中の蛙大海を知らず、私はそれでいい。私は蛙の様に、たんまりと塩分を含んだ大海に、身を投じる事ができ得ないデリケートな生き物だから。と、多摩川の土手で、日が暮れ、河に映る橋のオレンジ色の街灯と、鉄道橋を行き交う電車の車内から河へ放たれる光を見つめながら、ふと空を見上げ、満月の月を眺めた。森羅万象、ただそれに河は従っているのだと。