まだもうちょっと
濡れますよ、と困ったように笑いながらタオルを首にかけて彼は戻ってきた。自分だって床を濡らして部屋に入ってきて、そんなに急いでシャワーを済ませなくたっていいのにと思う。それは少しだけ嘘だった。ほんとうはもう少し早く出てきてほしかった。そうしたら、指先が冷える前に触れてあげたのに。
彼はベッドの尻尾の方にちょこんと腰かけて、布団の中にもぐりこんだ私を窺っているようだった。
突然振り出した雨を理由に誘われた後輩の家は、殺風景で必要最低限のものしか置いていないつまらない部屋だった。この部屋に住むのは別に彼でなくてもいいような、誰でも似合ってしまうような、そういう寂しさがあった。それは知り合う前の彼のよそよそしさに少し似ていた。
付き合って、と言ったことも言われたこともなかった。ただ一度だけ、二人で居残っていた図書室の中でキスをした。理由は特にない。強いていうならば、三秒以上目が合ったからということぐらいだろうか。人間は三秒以上見詰め合っていると性的興奮をするらしい、と教授が言っていたのを思い出した。私たちはそれを実証してしまったことになる。ただ、そこに唇を触れ合わせる以上の肉欲があったかは定かではない。
キスはした。だが、それだけだ。同じサークルの中にはいるがそれほど親しいわけでもない。私は未だに彼の誕生日も知らないのだ。
「なんか、飲みますか」
ああ、だか、うん、だか曖昧な返事をして天井を見ていると、彼は少し体をずらして上の方に移動してきた。少し赤らんでいる、水気を含んだ肩が見える。
黒い髪に手を伸ばし、まだ湿っているそれをゆっくり指先でかき混ぜる。するするとして触り心地がいい。実家の犬を思い出した。彼はくすぐったそうに肩をすくめて、それから私をじっと見つめ、ゆっくり瞬きをした。
するのかな、と思って目を閉じた。家に来るかと誘われた時点で覚悟はしていた。軽く額に唇を押し当てられて、その濡れた感触に少しだけ目を開けてみる。彼はすぐに離れてTシャツをたぐり寄せて腕を通し、ジーンズにも足を通すと大きなあくびをした。私は横になったままただそれを眺めていた。拍子抜けとはこういうことをいうのだと思う。
「いま何時ですか」
「えっと、1時」
「そっち詰めてくださいよ」
「え?」
「俺ソファですか?」
「いや、いいよ。……おやすみ」
彼は眉をさげ、おやすみなさい、と呟いた。
テレビの明かりもなくなり、暗くなった部屋にお互いの呼吸の音だけが響く。
隣に目をやると、彼は壁の方を向いて体を丸めていた。首筋が赤くなっているのを手のひらでこすってなだめているようだった。
不意にどうしようもなく愛しくなり、どうしていいかわからず、同じ方向を向いて目を閉じた。丸まった背中に触れないように、両手を組んで祈るように縮こまる。
「どうしよう、私、君のことすごい好きだ」
唐突に呟いた言葉に、はい、と少し間を空けて、上ずった声で彼は答えた。