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下村ちづる
下村ちづる
novelistID. 31309
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しおり泥棒 その1

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くりかえしについて書かれていた。まず、私が大きく覚えているのはそれだ。記憶の大部分を占めているのはそれだった。
 新書を読んでいたのだ、岩波新書。何を理由に、どういったタイトルだったのかちっとも覚えていないが、読んでいた。もちろん内容も覚えていない。読み進めているうちに起こった出来事のせいで、すっかり飛んでしまったのだと思う。塵も積もれば山となる、ましてや知識もそうだろうと私は考えているのだが、その時はほんとうに塵そのものになってしまった。場所がアパートの自室であったことも何故か覚えているが、これは正直些細なことに過ぎない。どこにしろ、いずれにしろ、私は出会うことになっていたのだから。
 ある頁(ページ)を読んでいた時の話だ。もちろん何頁かは覚えていない。新書の前半部分だったのか、中間部分だったのか、後半部分だったのか、そんな曖昧な位置も提示することが出来ない。とにかくその頁の文字を追っていた際、本を持つ右手と表表紙で挟んで持っていた栞を何かのはずみでうっかり落としてしまった。
 何故落としてしまったのか、具体的なきっかけは、もちろん思い出せない。しかし、落とした後の心持ちは上手くなぞることができる。とてつもなく、狼狽したのだ。それはちょうど隣人の生活音が聞こえていたからかもしれない。床を埋め尽くすように散らばった紙や積み重なった本、置きっぱなしの荷物や取りこんでそのまま放置した洗濯物のせいかもしれない。聞こえるもの、側にあると認識しているものが一斉に自分を見ている気がした。見知らぬ他者を、特に何かとんでもないことをしでかした他者を見るような冷ややかな視線が、一気に私を刺してきたのだ。そんな気分がした。
 そんな錯覚でしかない視線に圧され、慌てた私は栞を拾おうと手を伸ばしたが、寸でのところで止まってしまった。静電気のような電流が、人さし指を起点に全身へ走った気分がしたのだ。内なる電流。錯覚の。
 そこにはくりかえし、つまり「々」、について書かれていた。最も、久々、で使われているであろう「々」。どうやら広辞苑からの引用らしく、その用法について説明が書かれていた。13.4×4.8の紙。それがたまに聞く黄金比なのかどうかは知らんが(そもそも「黄金比」という言葉の存在以外の詳細を知らない)、私はその長方形がひどく気になって、とても気に入った。胸の奥から水の如くじわじわ広がっていく、歓喜にも不安にも近い高揚感が、震えが、私の喉を鳴らした。固唾を飲んだのだ。
 形を親指人差し指で歪ませることでようやく栞を床から剥がし、改めてしげしげ観察し(間近に見てもやはり素晴らしいものがあった。何ともまったく素晴らしい直角!)元のそれまでの位置―本を持つ右手と表表紙とのあいだに戻した。その後平常通り新書の続きを読み進めようと努めたが、もちろんそんなことは出来なかった。栞の存在感が、気になって気になって仕方が無くなっていたのだ。文字を目で追おうとしても角膜から網膜までの軌道を大きく擦れ、あっという間に霧散してしまうのだった。どうにかして、最後の頁まで辿り着いたが、すでにその行為はただ頁を捲るのみという流れ作業でしかなかった。
 私は栞を本来適当なところで挟まっておくべきである新書には挟まず、適当な箱の中に仕舞った。近所の百円ショップで売られている、ボール紙製の長方形の箱だ。中にはフックや切れた電池、どこか外国の硬貨(コイン)など、偶然にもそこに留まったままでは何の役にも立たない物たちが入っていた。ごちゃごちゃしたそれらを指で掻き分け栞専用のスペースを作り、仕舞った。その新書は元々図書館で借りたものであったため、翌日返却した。
 色々あった後のある日、私はふと思い立ってその箱を机の引き出しの奥から取り出し蓋を開け、様々な物に埋もれている底からくりかえしについて書かれている栞を引き抜いた。偶然まず目に入ったのが広辞苑の宣伝広告だったため、ひっくり返した。
 そこには
 々       『広辞苑』を散歩する⑲
 「家々」や「正々堂々」のように漢字・単語を重ねて複数や強調を表現できるのは日本語の便利なところ。それゆえ出番の多い「々」だが、実は漢字ではなく繰返し符号の一つで、「同の字点」または「ノマ点」と呼ぶ。『広辞苑』によれば、前者の名は「々」と「仝(同)」の草体とする説から来たという。後者は符号の形を二つに分解すれば「明々白々」。
 主に最後の一文で、実になんと生意気な、と感じたものだった。そして、これは違う、と思い、戸惑ったのだった。私が最も期待していたのは「くりかえし」という、「々」の読み方であった。しかし、ここでは「同の字点」と「ノマ点」としか書かれていない。そして、私はこの文を何度も読み返したくせに、これらの読み方をちっとも認識していなかった。ただただ「くりかえし」であると、信じ続けていたのだ。
 とてつもない空虚が、頭の奥から襲った。ふっと力が抜けていくのが、ありありとわかった。
 しばらく呆けてしまった後、私は栞を元の場所にしまった。
作品名:しおり泥棒 その1 作家名:下村ちづる