203号室 尾路山誠二『アインシュタイン・ハイツ』
津波のように『関わってくんじゃねえよオーラ』が酒気と一緒に襲ってきたので、とりあえずくるりと反転して歩き出した。決して逃げ出したわけじゃない。たださ、ほら、人は一人になりたいときって、誰でもあるだろう? そういうのを察した俺は大人の威厳(?)を見せたというわけだ。
股間の居たたまれなさに涙目になりながら、205号室の前までやってきた。こっそりと元来た方へ視線を流すと、202号室の彼女は歩き去るところだった。階段を下りて姿が見えなくなったのを確認して、溜め息を吐いた。
「こっえぇぇ……」まぁうん、ほら、怖いからってビビってるわけじゃないよ。……って誰に弁明しているんだ、俺。
「ふぃぃ……」
気を取り直して、折角ここまで着たんだから205号室の方に挨拶しよう。
呼び鈴を押す。オッサンの訪問を知らせるには、あまりにも軽快すぎる音が鳴った。
扉が開くことを想定して一歩下がる。しかし、中で人が動く気配がない。もう一度呼び鈴を押してみても、何の反応もなかった。
「おや、留守かな?」
試しにもう一度押そうとした時、「あ、おじさん!」と横の204号室から常盤兄弟が出てきて、俺に、自分の歳を考えさせる一言を放ってきた。
「おう、おじさんだよ。おじさんはおじさんだけど、尾路山だよ」
親戚付き合いとか皆無と言っていいほどで子供と接する機会がないせいか、おじさん呼ばわりされると何か凹む。いや、オッサンなんだけどね。自覚してるけど、そういうのとは別なんだよ。
「何してるんですか?」華麗にスルーされた。
「あぁ、205号室の人にさ」コンコンと扉を叩いてみる。「引越しの挨拶しにきたんだけど」
「そうなんですか」虹君がそう言って、「俺らもさっき来たんですけど、いないみたいですよ」と桜君が締めた。彼らは芸人でも目指してるのだろうか。
「そうか、さんきゅ。二人はお出かけかい?」
「はい、蕎麦を食べに行くところです!」あれ、今どっちが喋った?
「自分達の分は買ってなかったのか」訊くと、二人ともにやりと笑った。「あるある、最初その気が無くても、見ててたら食べたくなるの」
気をつけてな、と声をかけて俺は201号室へ向かった。兄弟は階段を下りていった。仲がいいことこの上なし。
「いいことだ」
◇
恐ろしいほどに酒臭い202号室の隣、201号室も人の気配がなく静けさに満たされていた。こちらも不在かな、と考えながら念のために呼び鈴を鳴らした。
すると、
「――はい、今出ます」中から声が聞こえてきた。
扉の向こうから出てきたのは、可憐な人だった。俺の顎下までしか身長はなく、線の細い体型。綺麗に纏められた長い髪は頭の後ろで結われていた。白いワイシャツとスラックスは身体の一部のようだ。ただ似合わないことに、頬を肩に当てるように曲げて、ぽきぽきと音を鳴らして肩の筋をほぐしていた。
「どちらさまですか?」落ち着いた声で訊ねられる。
「昨日203号室に越してきた尾路山です。何も渡せる物が無いんですが、挨拶だけでもと思いまして」
「そうなんですか」仄かに微笑みを浮かべて、「玖珂誠一郎(くが・せいいちろう)です。よろしくお願いします」と会釈した。
「いやいや、こちらこそよろしく」
何とかマトモな挨拶が出来たことにほっとする。先ほどの、短髪の蛇睨みの彼女、訳して略して『ショートスネーク』さんみたいな人ばかりではないようだ。まぁ、どことなく気だるげな雰囲気は漂っているけど。
と、背の低い玖珂さんの小さな背の上から部屋が窺えて、その様子に驚いた。
「なんかごっつい部屋だね。玖珂さん、何かの職人なのかい?」
尋ねると、無言で自分の部屋を覗いた玖珂さんは、「ああ」と呟きを漏らした。部屋には除湿機と、中学の工作の時間で使いそうなごつい機会が置いてあった。机にはゴム手袋や、ピンセット、おそらく分解された腕時計と思われるものが置かれていた。そこに漂う雰囲気は冷涼でいて、確かに人の息吹というか意思というか、混じりけのない純粋な何かが漂っているように思えた。
「僕、時計修理士なんです」
「へぇ、時計修理士! ジブリ映画にしかない職業かと思ってた」
いえ、ちゃんと現実にもあるんですよ、と言う玖珂さんは奢るでもなく誇るでもなく、それが当たり前であるかのように淡々としていた。
「下の名前、誠二って言うんだ。『誠』が一緒だな。まぁお互い誠なんて漢字に威厳負けしてるけど」なんてことは言えそうにない。むしろ、玖珂さんはきっと『誠』な人なんだろう、職人だし。まぁ『誠』って漢字の意味、よく知らないんだけど。
「ああ、そうだちょうどいい! ちょいと質問あるんだけど」ふと思い出すことがあって口を開いた。「俺の部屋の置時計の秒針がさ、どうもずれてるようなんだけど不良品なんだろうか。長針と短針は問題ないんだけど」
どんな答えが返ってくるのだろうと考えていると、「その時計、三針式ですか?」と逆に尋ねられた。
「三針式って?」訊くと、
「長身、短針、秒針の三本とも同じ軸にあるものです」
「あーそうそう、それだ」
「それなら」と玖珂さんは納得がいったような表情を浮かべた。「三針式というのは、長針と短針とは別の機構で秒針を動かしているんです。長針と短針が正常なのはそういった理由です」
「へぇ、そうなのか。それで、秒針がおかしいのは?」
聞くと渋い顔で首を振られた。
「歯車に遊びを持たせないといけないので、それはもう仕方がないことです」
いい値をする時計の中には寸分の狂いもなく動くものもありますが、と玖珂さんは付け足した。やはりそこは職人だ、かなり詳しい。
「もし秒針のずれが気になるようだったら、新品を買ってみてはいかがですか? 僕の実家が時計屋なので、紹介しますよ」
「ははっ、すごいな家族ぐるみか! でも、そこまで気になっているわけじゃないんだ。まぁでも、考えとくよ」
玖珂さんは残念そうでもなく、目をギラつかせるでもなく、淡々と「そうですか。気が向いたら」と言った。
それじゃあ、と挨拶をして階段へ向かう。次は管理人のミドリさんだ。いやー年甲斐もなくワクワクしてしまう。一体全体どんな女性なのだろうか。昨日から期待がぱんぱんに膨れあがっていた。
――と、そこで重要なことを訊き忘れていることに気づいて、急いで振り返った。玖珂さんは扉を閉めようとしていたところだった。
「あの、玖珂さん!」
「はい?」少し驚いたような表所で振り返られる。
「あのさ、玖珂さんって、」これを聞かずして、この場を去れない。「えーっと……男性、だよね?」
玖珂さんは、ぽりぽりと頬を掻くと「そうですよ」と答えた。
「そうか、ありがとう。失礼なこと聞いたね」
「……いえ、それじゃ」
ああ、と軽く手を振って俺は再び階段の方へ向かった。
んー。
実に残念だ。
◇
さて、ここからが本題である。
スーパー美女(脳内妄想)のミドリさんに挨拶をする。今日俺が部屋から出てきた大本題である。
ミドリさんの部屋、管理人室は一階の端にあった。俺はその部屋の前に立つと、一つ深い深呼吸をした。
作品名:203号室 尾路山誠二『アインシュタイン・ハイツ』 作家名:餅月たいな