ハーモニカ
信乃夫は思わず起き上がろうとした。急に動いたせいか、目の前がぐらりと揺れる。いったい何を呑まされたのかと舌打ちした。
「寝ていろ。かなり飲まされたのか?」
「酒はほとんど飲まなかった。最後に無理やり流し込まれて、その中に何か仕込まれていたんだと思う。気分が悪い」
尚之は信乃夫の額に手をあてて、熱を見る。
「少し熱っぽい。話は明日でいいから、もうやすめよ」
再び横たわった信乃夫に、尚之は掛布団を首までかけ直してくれた
額に残された尚之の手の感触を反芻しつつ、信乃夫は目を閉じた。
後日、尚之の伯父が銀行に圧力をかけて調査した結果、田内が地位を利用して銀行の金を流用していたことが判明する。横領罪で田内は逮捕されたが、余罪のかどわかしの件は届がないので裁かれなかった。ゆえに信乃夫や他の被害者の名前も表には出なかったが、今後、そのことで噂が出たり、それを理由に被害者達に接触しようとすれば、恥も外聞も関係なく被害届を出すと半ば脅す形で田内には言い含められた。更なる罪で裁かれたくはないことと、関係した『客』達は地位や名誉のある大物と思われ、それこそ表沙汰になれば、自分の命は刑務所の中でも危険に晒されると判断したのか、田内はそれを大人しく呑み誓約書を残した。
それから信乃夫のもとに、来年度の学費の半分に相当する見舞金が届けられた。あの「浅野」と言う男からだった。彼も今回の不祥事は表ざたにはしたくないのだろう。あるいは尚之の親戚筋と取引があるのかも知れない。何にしても信乃夫は当面、学費で頭を悩まさずに済む。働き先もゆっくり探せる。とりあえずは、もともと勤めている料亭で働く時間を増やした。手を使う仕事になるが、贅沢は言っていられない。
今回、尚之は親身になって動いてくれた。
容子に警察に連絡させてあったとは言え、たった一人でどんな状況かも知れない場所に乗り込み、信乃夫を救い出してくれたのである。つまり夢の中だと思ったことは現実だった。抱きしめてくれた温もりは、本物の尚之のものだったのだ。その上、信乃夫の不利にならない事後処理を見越し、心を砕いてくれた。おそらく学校関係者で知っているのは、他には容子しかいないと思われる。親族の力を使ってまで穏便に、且つ、相手が信乃夫に手出し出来ないように考えてくれた。
(なぜ、尚之はこんなに親身になってくれるのだろう?)
もともと友情に厚い男だが、今回、信乃夫は身を持って知った。自分が思う以上に大事にされているとわかり、信乃夫は面映ゆいと同時に、嬉しかった。
「もう容子に心配させるようなことはするなよ」
「容子?」
「次の日、容子が朝、学校に行く前にうちに寄ったんだ。おまえは熱を出して寝込んでいたから部屋には入れなかったんだが、戸口のところから中を見るなり泣き崩れて、しばらく立てなかったくらいだった」
(抜かった)
信乃夫は心の中で独りごちた。
この手のことには――女性が自分に好意を抱いていることに対しては、本来、信乃夫は敏感だった。感じ取ったなら、なるべく接点を持たないように努めた。「男女七才にして席を同じうせず」が染みついている時代である。たいていは信乃夫に話しかけもしないまま、諦めて消えて行った。中には積極的な性質の者もいたが、信乃夫の脈がないと感じるのにそう長くはかからなかった。
鶴原容子は慰問トリオの一員であるし、長身で丸みの足りない少年じみた体型と男勝りな性格、はっきりした物言いが異性を感じさせなかった。尚之と二人で始めた慰問活動に彼女が加わりたいと言った時、反対しなかったのはそれがあったからだ。むしろ尚之との方が親密で、信乃夫の胸の内を違った意味で揺さぶったため、探知感覚が鈍ったのだろう。
尚之から聞いた容子の話は、一見、友人を心配している風にしか聞こえない。しかし蘇えった感覚がが、それとは別の、彼女の感情の在処を教えた。
「容子はあんな風に泣くんだな、初めて見たよ」
そして尚之の呟きの中に、彼の複雑な表情も見抜く。容子の泣き顔を思い出し、彼の頭は今の瞬間、彼女で占められている。更にその表情で、彼の中の自分の位置を思い知る。親身なのは、やはり友情の延長に過ぎないと。
「気を付けるよ」
信乃夫はそう答えると、尚之にわからないように息を吐いた。