京都七景【第八章】
【第八章 山門に散る(一)】
《送り火第二話》 (大山談)
「いざ失恋話となると、なるほど話すのに妙に勇気がいるもんだな。気つけに一杯あおらせてもらうよ」そう言って大山はヴァランタインの水割りの残りをぐいと飲み乾すと、ゆっくり語り始めた。
「忘れもしない、去年の秋のことさ。うむ、どうもいけない。思い出すと今でも胸がきゅっと痛くなる。人間はつくづく弱いものだな。どうやらこの恋は、俺の中ではまだ終わっていないようだ。まあ、それだからこそ、今夜のテーマにふさわしいわけだが」
見ると、大山はめずらしく口を横にきつく結んで苦しそうな表情を浮かべている。
「この話には少し前置きが必要なんだが、聞いてもらえるかな」
皆、大山の苦衷を察してか無言のまま一斉に首を縦に振った。
「あれは一回生の夏休み前のことだから、去年の秋をさかのぼること一年以上前のことになる。〈ドイツ文学概論〉の講義に出て、何気なく文学部の掲示板を見ていると、何か横にふわりと動いて来て、すっと降り立ったものがある。不思議な気配にすぐ横を見ると、薄ピンクのノースリーブのワンピースに薄緑のリボンのようなベルトをした女の子が立っていた。おそらくその女の子も講義が終わったのだろう、胸にテキストやノートや辞書を抱えてやはり掲示板をのぞいている。そのシルエットに俺は一目で参ってしまった。だってその女性が、俺にはシェイクスピアの〈夏の夜の夢〉に出て来るハーミア(ヒロインだな)そっくりに見えたからだ。もちろんハーミアがどんな外見をしているのかシェイクスピアならぬ俺が知る由もない。俺はただハーミアという響きのよい名前とセリフからハーミアの姿を想像しているに過ぎない。ところが想像した通りの姿がそこにあった。もう、驚いたのなんのって・・・俺は言葉を失い、その場にいたたまれないほど気分が動転し、気持ちが動揺した。だが一瞬たりともその女性から目を離すことはできなかった。
ハーミア、ハーミア。な、いい響きだろう、少なくともおれにはそう思える。何かこう、恋に一途な、それでいて捕まえようとするとふわりと身をかわして、その先の木陰から優しく手招きするような、そんないたずらっぽさを感じさせる名前だ。うーむ、だめだ、だめだ。ちょっとこんなことを考えただけで、もう胸がどきどきして来た。俺って至って純情だな、へへへ」
わたしたちはどう反応したらいいかに困って、ただ無言で顔を見合わせた。
「まあ、それはそれとしてだ、先を急ごう。そのときはそれだけで終わってしまった。残念ながら、ほかにどうしようもなかった。だがここから俺の悲恋が始まる。そのとき以来、わが心のハーミアが頭から離れなくなった。寝ても覚めてもとは言わない。というのも、寝ているときは忘れているし、物を食っているときも思い出さないが、〈ドイツ文学概論〉の講義が終わると決まって思い出すようになった。これは俺にとって、天と地が一遍にひっくり返って空の真ん中に落下していくような経験だった。これまで俺は現実の女性より小説のヒロインに恋焦がれるほうが嬉しいと考える人間だった。優れた小説にヒロインがいればすぐに恋焦がれる。それがまた何ヶ月、何年も続く。するとその間に現実の女性には何の興味も持てなくなるのだから困ったものさ。まあ、文学の毒にあたってしまったのかもしれないな。ゲーテの「ファウスト」を読めば、グレートヒェンに心を痛め、「ヴィルヘルムマイスターの修行時代」ではミニヨンに恋し、スタンダールの「赤と黒」なら断然レナール夫人を支持し、「復活」はカチューシャとともにネフリュードフに激怒し、「テス」では、その悲運とヴィクトリア朝道徳を嘆き、「あらし」では聡明で心優しいミランダに胸を焦がし・・・」
「おい、誰かとめてやれよ、文学の毒が全身にまわって来てるぜ」と堀井が制止に入る。
「おお、すまん、すまん、自分でもわかってるんだ。だが、もう手遅れだろうな。こういう話になると自制が利かなくなる。もはや文学的自家中毒としか言いようがない。申しわけなかった、話を戻そう」
「ああ、ぜひそうしてくれ。何だか頭がくらくらして。どうやら、おれも文学の毒にあたったらしい」とわたし。
「それは違うと思うな。だって俺は現実の世界に失望したから、文学に避難して毒にあたったわけだ。でも、おまえは最初から文学の世界に住んだままだろ。ならば今度は少しくらい現実の毒にあたって耐性を高めておかないと、これから現実の恋愛に失敗するぜ」
「いつになく容赦ない言葉だな。だが、全くその通りに違いない。しかと胸に刻ませてもらうよ」
「お役に立てれば嬉しいよ。それじゃ、話の続きをしようか。」大山はふたたび語り始めた。
「それからの俺は、毎週〈ドイツ文学概論〉の講義に出ると必ず掲示板の前にたたずんで彼女に会うのを心待ちにするようになった。だが、いつになっても彼女は姿を現さなかった。そのうちに、夏が過ぎ、秋が行き、冬が来た。それでも彼女は現れなかった。さすがに俺も、こりゃあ、もうだめだなとあきらめかけた時のことだ。ちょうどそのころ、専攻の発表があっただろ、俺は希望通り独文(ドイツ文学科のこと)に進むことができた。まあ、それはそれでうれしかったんだが、問題はここからだ。その発表用紙のわきに「独文新人歓迎会開催のお知らせ」という紙が貼ってあった。おや、と思って読んでいくと。来る十二月三日 午後六時より 叡電元田中駅前「うし寅」にて、独文新人歓迎会を開催いたします。年々先細る志願者の中、独文を選んでくださった貴重なる一回生諸君の蛮勇を讃えるとともに、われら二回生から七回生までの学部学生および院生、オーバードクターこぞって、酒とともにゲーテの詩に酔い、シラーとともに憂国の思いを分ちあう、そんな憩いのひとときを過ごそうではありませんか。どうぞふるってご参加ください。会費 新人、一〇〇〇円。学部生、二〇〇〇円 院生以上、三〇〇〇円」とある。
まあ、せっかくだから参加してみようと翌々日の金曜日に出かけてみたわけだが、店に入って、座敷に案内され、新入生の決められた席に座って、あたりを見回すと、当然のことながらほとんど知った顔がない。時間を十五分くらい過ぎてもぽつぽつと空席が目立っている。俺のいる席は四人席で、自分の向かいの席がまだ一人分空いている。今年はどうやらこの四人が独文科の新人らしい。まあ、このまま話すといつまでたっても終わらないから、一気に端折ることにするぜ。