登山と挑戦と冒険と
「あのですね、あのー、ベッドの下の、」
「ああ。弄ったのか?」
「いや! 弄ってないです」
「そうか。では色々と勘繰っていたのだな。例えば、卑猥な本とか」
「そ、いや、いや……その……はい」
うまい切りかえしが思いつかないので、項垂れながら素直に肯定した。
「何だ。珍しく素直だな」
物を置けるようなテーブルは無いので皿を床に直接置くと、先生は盛大に笑った。続いて私も皿を床に置いた。箸だけはさすがに直接置くのは衛生上良くないと、インスタントコーヒーの空瓶を有効活用する。瓶の中に箸を入れて、置いた。
「これだから、ひゃくめおにくんは面白い」
ツボに入ったのか、笑い終わる気色がない。
「ああ、もう! 頂きます!」
恥ずかしくなって、リスのようにうどんを頬張る。喋るとボロが出そうで嫌なので、詰め込んだのだ。それを見て、さらに笑う。咀嚼もうまくいかない。ぐぬぬ。
「人の秘密を暴くには、それ相応の代償が必要となる」
「む?」
「……ああ、やっぱり駄目だ。ゆっくり味わって食べてくれ。僕が食べられない」
もごもごと口を動かす。先生は口を閉じるのに精いっぱいのようだった。
「んぷ。それで、何です?」
何とか咀嚼して飲み込んだ。顎が痛い。詰め込み過ぎた。
「ふふっ、あ、いや、すまん。……ふぅ」
「楽しそうですね」
「ああ。君といると飽きない」
「ぶり返しそうになっていますけど?」
指摘すると、口元に手を持って行って親指を使って口角が上がらないようにと、抑えるような仕草をとった。
「人には誰しも触れられたくない部分がある」
抑えたまま喋る。声がこもって聞こえるが、聞こえない距離ではない。
「それが僕にとってベッドの下だったというだけだ。付け加えると、卑猥な本ではないよ。君にしてみれば、何の面白味もないものかもしれない。僕の思い出を集めた本。いわゆる、アルバムだ」
懐かしそうに目を細めたように見えた。
「卒業アルバムとか」
「いや。卒業アルバムは理由あって全て燃やした。燃えたというのが正しいかもしれない。僕が言うのは個人的なものでね。ほら、両親が成長記録にと、ビデオを撮るだろう。今はDVDかもしれないけれど。僕の家は写真だけだった」
燃やした? 燃えた? どういうことだろう。
思ったより重い話が飛び込んできて、急に胃が重くなる。やはり好奇心を解き放ってはいけなかったようだ。
毎回、それで私は失敗するのに。どうして失念していた。先生が相手だからと油断していた? 相手が誰であろうと、判断を誤ってはいけなかったというのに。
「ごめんなさい」
「ん? ああ。気にすることはないさ。僕の言うことを一々気にしていたら駄目なことは、よく知っているだろう。それに過去は変えられないのだから、暗かろうが明るかろうが終ったことだ。他の人はどうだか知らないがね。僕としては終ったことだから」
そのまま何でもないように、なかったように、うどんを食べ始めた。
確かに先生の事を一々気にしていたら限がない。
でも、話の内容に嘘はなさそうである。どういう話かは全く見えないのは頭の悪さ故か。理解力の無さか。それでも、仄暗いあるいは暗すぎる過去があるようだと悟った。
すると唐突に赤い丸をつけた記事を思い出した。あれも関係するのだろうか。内容は読んでいないので詳細に思い出すことが出来ない。
こう考えると、先生という人物は秘密が一杯あるものなのだな。しみじみと思った。
「先生の懐に入るのは、大冒険必至そうですね」
素直な感想を伝えてみた。
すると、うどんを掬った手が止まった。
「懐に入るつもりなのか?」
あれ? 首を傾げる。
「ああ。そっちではないのか。大冒険の方か。人によってはくだらない丘を登る程度のことかもしれないぞ」
「私にとっては誰の懐に入るにも苦労します。クライマーは本当尊敬しますよ」
「冒険者じゃないのか、そこは。君らしいな」
「あとは、チャレンジャーでも良い気がしますね」
「何に挑戦するんだ」
「え。えーっと、あ、人生という大きな山に?」
「登山家から離れられていないじゃないか」
とうとう先生は笑った。
日に二回以上も先生を笑わすなんて、かつてないことだ。しかも爆笑している。珍しい。何処がツボだったのだろう。クライマーのところだけでは何だか弱いと感じる。普通の人だったら笑わないだろう。
「ひゃくめおにくんには敵わないな。まったく」
頭をちょっと強いぐらいの力で、撫でられた。
一瞬、何が起こったのかわからなくて、呆けて見てしまった。
今日は珍しいことだらけだ。
「特別に、本を探してあげるから、ゆっくり食べていてくれ」
まだ焼うどんが残っているというのに、立ち上がって開けたままの私室に入って行った。
開けたままなので、会話には支障がない。距離もそんなに離れていない。思えば電気も点けていたままなので、先生の姿もハッキリと見える。
「いや。それは最初から家主がやってくださいよ」
「ふはっ」
「ええー。笑う意味がわからないのですが」
「素直に探し始めた、君が悪い」
「それを言うなら私室を好き勝手していいと言うのも、おかしな話です」
「今更だな。君は信頼における人物だから、良い。他の人間を呼んだことがないし、今後、呼ぶ予定もない」
「はぁ」
探している間にもそもそと咀嚼して、皿の上を綺麗にした。うどん料理が主だが、先生の手料理は美味しいのだ。
先ほどの微妙な空気を払拭出来て良かった。心の中で呟く。
「本は、これで良かったかな」
「そうです。お借りします」
「うん。授業で使うのか?」
「はい。翻訳なんて大冒険です」
「ははっ。君には何でも大冒険なのだなぁ」
「否定はしません」
なんてったって、私は先生といると冒険しっぱなしなのだ。今日はかつてない大冒険だった。
「僕も、」
冒険してみたいのだがなぁ。
そう呟かれた言葉にどう反応すればいいのか分からず、首を傾げた。
どうやら冒険するところは、まだまだありそうだ。