最終電車 3
誰かが僕の体を揺すっている。仕方なく、目を開けてみた。
「こんなところで寝て、風邪ひくよ?」
廊下ですれ違ったことがある程度の女子生徒の顔が、目の前にあった。話したこともなかったし、名前も聞いたことないのだが。
「大丈夫だよ。今日は暖かいから」
そうしてまた目を瞑ろうとしたら
「こういう日に限って駄目なんだぞー!」
顔をばちんと叩かれた。
「いった……あのさぁ、それ、初対面の人にやることじゃないくない?」
相手の顔色が赤くなった。
「何故そこで照れる」
「え、いやぁ……別に何にもないけどさっ。ほら、起きて! 起きなさい!」
また顔を叩かれたので、仕方なく起きた。
そこで、そういえば自分は、暖かい日差しの中で桜を見ながら寝れたら最高だ、と思って寝たのだと思い出した。
乱れた髪を適当に直して、相手の方を改めて向いた。
うん、わりと可愛い子だ。わりと。80%くらい。
「……ちょっと? 今失礼なこと思わなかった?」
わりとと言いながらも、地毛と思われる茶髪は全体的にウェーブがかかっていて、可憐な少女と言うにはぴったりな感じがした。
「私、3組の遠野伊沙。よろしく!」
手を出してくる。自己紹介して握手って今流行ってたっけ、と思いながら、こちらも手を差し出す。
「僕は―――」
「知ってる。知ってるからいいよ!」
ぎゅっ、と手を握ってきた。それは、僕が今まで感じたことのないくらい温かかった。
「じゃあ、もうじき授業始まるから、私は行くね。あなたも、遅刻なんてするんじゃないぞー?」
そう言うと立ち上がって、校舎の方へ入っていた。
僕は、不思議な子だなぁ、と思いながら、また寝転んだで、眠りについたのだ。
宿題を終わらせて、風呂に入った。今日を振り返ってみた。
何だか不思議な1日だった。学校で寝るのはいつものことなのだが、今日はいつもとは違って、見かけたことしかないような、完璧に「他人」と言えるような少女が声をかけてきた。というか、起こされた。
確か、遠野伊沙と自分の名前を名乗っていた。もちろんそんな名前を聞いたことはないし、学年の掲示板に張り出される成績上位者の表の中でも見たことはなかった。
そういえば、自分たちは初対面だと言ったら変な反応を見せたから、向こうは自分のことを知っていたのだろうか。少なくとも、全く初対面の人の顔をいきなり叩きはしないと思う。
いろいろ考えているうちに、僕は風呂の中で眠ってしまった。眠ってはいけないと、分かっていながらも。やはり睡魔には勝てなかったのだ。
「なーに寝てんだよぉテメェはよぉっ!!!」
その声が誰からかとか、いきなり何だとか、そういうことではない。
そんなことを考える前に、右のこめかみ辺りにすさまじい激痛が走った。血が流れて、お湯と混じった。
「うっ……あっ……!」
こめかみを抑えた。痛くて、その分だけ力がこもってしまうから、余計に血が溢れてきた。
「人様がせっかく夜まで働いてるって言うのに、何一人でくつろいでんだよぉ!」
そんなものは嘘だ。僕は知っている。この男は昼まで寝て、起きたら金稼ぎと称して競馬場かパチンコ屋へ行く。かと思えば、たまには休憩が必要なんだと言って居酒屋に行って酒を飲むのだ。大抵の賭けは負ける。こいつには才能も運もない。
だから、家に帰ってきて寝ている僕を見つけては殴るのだ。
普段、僕は家で寝ない。寝るとしてもこの男が帰ってくるまでであって、この男がいる間はずっと家の掃除をしているのだ。この男はとりあえず僕が働いていたら殴ることはしない。どうやらこの男は、僕がくつろいでいたり寝ていたりすることが嫌いなようだ。そうは言っても、いつも以上に大負けしていらついている時は僕が何をしていようと殴るのだが。
だから今日風呂の中で寝てしまったことは、不覚だった。まだ自分の部屋ならいい。床がカーペットだから、ある程度までは衝撃を吸収してくれる。風呂場は別だ。やわらかい物は何一つないし、何より狭い。
「い、たい……ごめんなさい、もう寝ない、もう寝ません……だから許してください……ごめんなさい……お願いします……」
泣きながら謝る。それ以外にできることはない。逃げることはできないし、そんなことをしてもこの男の怒りが高まるだけだ。
「……ちっ……」
舌打ちをして、殴るのを止めた。やっと終わったか、と思ったら、今度は僕の髪の毛をぐしゃりと掴んで、そのまま僕の顔をお湯の中に沈めた。
「!? ごぼっ……!」
まさかこの男が、本当に僕を殺そうとするとは思わなかった。
この男にとって、僕はただのストレス発散なのだ。殴り、蹴り、その日のいら立ちをぶちまける。僕のことはお構いなしだった。
でも例えば、僕がいなくなったら、この男は困るだろう。都合のいい道具がなくなるのだから。
「ほら、ほらあ! 苦しいとかよぉ! 言ってみろよぉ!」
本当は、この男に殺されることはどうでもいい。ただ、その瞬間に何も言えないこと以上に悔しいことはない。
もしこの男に首を絞められて死んでいくなら、今までの不満を全部吐き出して死んでいきたい。やっぱりあんたは、最後まで最低なやつだったよ。この男にそう言うことは、一種の僕の夢でもあった。
液体の中では、何も言えない。それは悔しいことでもあるが、ある意味滑稽なことでもあった。
「……」
突然、僕の顔をお湯の中から引き上げた。
僕はげほげほと咳き込んだ。どのくらいの時間、沈められていたのか分からない。1分は経っていたと思うが。
「次寝てたらマジで殺してやるよ!」
叫び声が風呂場いっぱいに響く。
男は風呂場から去った。
「……」
まだ、お湯の中に沈められた感覚を覚えている。耳の中には水が残っていた。右こめかみの傷も痛む。血はもう止まっていた。
とりあえず、風呂から出て、鏡で傷口を見てみた。切れていたわけでも、裂けていたわけでもなく、割れていた。今までの傷はあざばかりだったから、こんな怪我は見ること自体慣れていなかった。正直、気持ち悪い、と感じてしまった。
その後、あの男が寝たのをしっかりと確認して、布団の中に入った。
そして、自分はいつ殺されるか分からない、と再確認したのだ。