夏の思い出
待ち合わせ時刻を5分過ぎて、営業の木下さんがようやく現れた。だが、残りの先輩社員2人が見当たらない。2人はどうしたのかと、私は聞いてみた。すると、木下さんは……。
「山田さんは、仕事で遅れると聞いたんだけど、田中さんは、連絡が付かないんだ。もう一度、電話を入れてみるけど……」
「はい、お願いします」
私は木下さんが携帯で電話をしている間に、自分の携帯を開き、再び、デジタル時計を眺めて、夏の暑さを我慢した。木下さんが携帯を閉じて、電話が繋がらないと言ってきたので、木下さんが2人に先に行くことをメールで連絡して、現地に向かうことを決めた。私は、嬉しかった!飲み屋に行けるのだから!
飲み屋の前まで来ると、店から店員が出てきたので、営業の木下さんが、『予約していた木下です』と言った。その言葉を聞くと、店員がすぐに店内に帰っていった。おそらく、予約者と座席の確認をするためだと、私は想像した。しばらくすると、店員が、再び、私達の前に現れた。そして、申し訳ないという顔をして……。
「お席を片付けますので、少々お待ちください」
と言った。指定時刻に予約したのに、座席が確保できていないとは、どういうことですか!と言いたいところだったが、夏の暑さが私の気力を奪う。私は中に入って、ビールを飲みたいと思った。営業の木下さんも、早く中に入ってビールを飲みたいだろうと思って、木下さんの方を見ると、カバンの中からミネラルウォータを取り出していた。ペットボトルに白い霧が掛かっていることから、自販機かコンビニで買って、まだ時間があまり経っていないことが想像できる。まさか遅刻した理由は……。と、木下さんに訊ねようとした瞬間、店員が現れた。私は口の中に溜まった言葉を呑み込んで、店の中に入ることにした。
店内に入ると、酒で寄った客の声で、既に賑わっていた。私達は、店員に案内されて、席に着いた。さっそく、ビールを注文しようとしたが……。
「2人が来るまで注文はやめましょう」
と木下さんに言われてしまった。私は、再び、夏の暑さと戦うことになった。せめて、クーラーの涼しさで、暑さを忘れようと考えたが、酔った客の熱気で、クーラーの涼しさに浸ることができない。私は、早く2人に来て欲しいと願った瞬間だった。
「こんばんわ」
と言って現れた声の持ち主は、山田さんだった。木下さんが、注文のGOサインを出したため、私は店員を呼んで、ビール3杯と、餃子や焼き鳥などを注文した。私は『まだか、まだか』とビールを待ち焦がれていた時、ようやく最後の一人、田中さんが現れた。私は、すぐに店員を呼び、残りのビール1杯を注文した。
ビールが来る間、会社での出来事や、今日の暑さについて話し合った。夏の暑さについて、話が終わりそうになったところで、店員が現れ、テーブルにビールと食べ物を置いて、どうぞゆっくりして行ってくださいという顔で、挨拶をすると、店員がカウンターの方へと戻っていった。
私達はグラスをカチンと当て合うと、こう言った。
「お疲れ様~。かんぱ~い」
――グビグビドゥ~。
私はビールのジョッキを持って、ジョッキから溢(あふ)れんばかりのビールを口の中へと入れていく。
口の中で泡の感触を味わいながら、私は胃の中にビールを流し込んでいく。ジョッキの底を見つめて、最後の一滴まで飲み干した。そして、ジョッキが空になったところで、私は両目を力強く閉じて、美味いという顔をした。
――グビグビドゥ~。
私に続いて、隣の席に座っていた営業の木下さんが、私と同じ動作でビールを飲み干した。
――グビグビドゥ~。
さらに、向かい側に座っていた山田さんと田中さんの2人が、ビールを飲み干していく。
私がその動作を見届けた後、木下さんが拍手し始めたため、私も、それに合わせて拍手をした。
私はテーブルに設置されているコールボタンを押し、店員を呼ぶ。店員が私の横まで来て、注文を聞いてきた。私はタコワサと唐揚げ、そして、グビグビドゥ~をジョッキで4杯、注文する。
店員がテーブルを離れて行った。私達は会社での出来事や失敗談、笑い話をして、ビールが来るのを待った。
アルコールの酔いが顔に出始めた頃、注文したビールと食事が到着した。私達は、泡立つビールを見て、笑みを浮かべた。
「かんぱ~い」
再び、挨拶を交わし、私達はビールジョッキを持つと、胃の中へと、グビグビドゥ~を流し込んで行った。一杯、二杯、三杯とビールを次々と飲み干していく。ビールを飲むたびに、夏の暑さを忘れて行った。
何杯飲んだか忘れた頃に、木下さんが険しい表情で、カウンターの奥にあるトイレに向かって走って行くのが見えた。辺りを見回すと、がやがや騒いでいた酔っ払いの客達が誰一人、見当たらない。店員は、酔っ払い達が散らかして行った食事や酒を片付けていた。山田さんと田中さんの顔を見てみると、二人共、顔が青ざめ、口元を押さえていた。どうやら、私達は飲みすぎてしまったようだ。
「木下さん早く……」
と、山田さんが言った。
2人共、あまりにも、体調が悪そうだったので、見かねた私はこう言った。
「店員さん、エチケット袋、3つお願いします!」
私が店員に声を掛けた瞬間だった。
――グビグビドゥ~。
トイレの中から、木下さんの吐く声が聞こえた。私はその声を聞いた途端に、突然、腹の底から昇ってくる熱い何かを感じた。私は必死に口を手で押さえた。
――グビグビドゥ~。
手の隙間から、熱い液体が洪水のように溢(あふ)れだした。テーブル一面が、熱い液体のオブジェに包まれた。そして、それに釣られるように、山田さんと田中さんも、手の隙間から、洪水のように、その液体が溢れ出た。
テーブルが一面、まるで洪水でもあったかのような光景になった。店員が慌てて駆け寄ってきて、エチケット袋を私達3人に手渡すと、山田さんと田中さんの背中をすすりだした。私は一番初めに店の外に居た店員だと、すぐに気づいた。私は、良い店員だと感じた。しばらくすると、 木下さんがトイレから戻ってきた。木下さんは、2つの大きな目玉と口をぱっかり空けて、テーブルを避けるように立っていた。私達は店で気分が優れるまで休憩すると、店員に何度も謝って、飲み屋を後にした。
――あれ以来、私は酒を控えるように心がけている。
「シャッチョさん、今日は5件、周りましょや」
「よっしゃ、いこいこ」