乗り間違え
二十三時に電車に乗り込んだ若者は、壁際の席に座って大きく息をつく。会社での出来事を思い出しながら、入社したばかりの日を懐かしむ余裕が生まれた。
アナウンスが響き、電車は走り出す。
あの頃は苦しかった。だけど最近、ようやく仕事が面白くなってきた。自分がどこまで通用するのか、はさすがに見切りがついてしまったが、どれだけ自分を管理して仕事ができるか、これからどんな人々と出会っていくのか、それが楽しみになっていた。
それにつけても、今日の残業はいささか堪えた。自分の身から出た錆でないだけに。
若者は強張った背中を休めようと、背もたれによりかかろうとした。
「……わっ」
背中が座席の背もたれを、そして電車の壁をすり抜けた。彼の顔を、電車が引き裂いた風の壁がぶちのめす。頬の肉がたわみ眼も開けられない。このまま地面に落ちてバラバラになって死ぬ。そう確信した。
しかし彼は、腹筋と体全体を縮こませて車内に戻ることができた。脚が運よく座席に引っかかっていたのだ。彼は生れて初めて、胴と比べて短い脚に感謝した。
「なんなんだ!」
彼は逃げるように通路に立った。自分の座っていた座席の背もたれに手を伸ばし、触れようとする。しかし手は柔らかなシートを感触もなくすり抜けた。猛烈な風圧を指先に感じた。
手を引っ込める。
若者は周りを見渡す。しかし深夜近くの電車には、彼以外に誰もいない。窓越しの電灯と街明りが通り過ぎていくだけだった。
「わしゃ、もう疲れた」
声がする。
「誰だ!?」
「わしじゃ。電車の縦座席じゃ」
声は若者の座っていた座席から聞こえてくる。若者は、自分は夢を見ているのではないかと思い至った。
「なるほど、夢か……」
「違うわい、現実じゃ」
夢なら、これはなかなか面白い愉快な夢だ。若者は決めた。よし、この生物とも言えない奴と会話してみようじゃないか。
「そうか、なるほど、君は電車の座席か」
「縦座席じゃ」
「失礼、縦座席」
「うむ」
「え~っと」
若者は縦座席の言っていたことを思い出す。
「何が疲れたんだい?」
「お主らの背中を受け止めることにじゃ」
若者は糾弾する。
「そんなこと言ったって、それが君の仕事じゃないか」
「そおいうのがっ、疲れるんじゃっ!」
縦座席は、一言ずつはっきりと発音しながら答えた。
「仕事? 仕事じゃと。笑わせる。お主ら、わしらに金を払おうたことがあるか? 休みをくれたことがあるか? 労わったことがあるか? えぇ!?」
縦座席の口調は、その場で暴れ出さないのが不思議なくらいの権幕だ。しかし若者は夢だと分かり切っているので、涼しい顔をして聞いていた。
「ふむ、なるほど、それは辛いね。でも、君たちはそういう役割で人間に作られたんじゃないか。それに、普通であれば君たちは人間と交渉することもできない。人間が君たちの意を汲んで、給料を支払おうとしたり、休ませようとしたり、労わろうとしたりするのでは、まるで君たちが王様じゃないか。現状から余りに離れた要望だよ。現実逃避と同じじゃないか」
むむむむ、と縦座席は押し黙る。しかしふと、脱力したように息を吐く。何やら考え込んだ後に、今度は打って変わって興奮したようにしゃべりだした。
「ならば、この機会こそ好機と見定めよう。おぬしはわしの声が聞こえるようじゃし、どうか人間の代表として、わしらの待遇の改善に協力してもらえまいか」
希望に充ちあふれたこの言葉を、若者は切って捨てる。
「おいおい、忘れてもらっては困るぜ縦座席。僕はさっき、君に殺されかけたばっかりじゃないか。僕が思うに、君はさっきまで、人間を殺してうさを晴らすつもりでいたよね。印象は最悪だよ。それに僕に論破されたくらいで意見を翻したんじゃ、僕はますます悪印象を持たざる得ないよ」
若者はニヤニヤと言葉を紡いだ。どうせ夢なのだから、言いたい放題でも構わないだろうという算段があった。それに最近の生活で、こうも相手を気持ちよく論破できた時があっただろうか。自分の正しさを主張できたことがあっただろうか。我ながら、気持ちの良い夢を見ているものだと若者はご機嫌だ。
「ほぉ、これはしまった。今度はうまくやろう」
「今度が、あるならね」
若者はそう言って、電車の窓に視線を移した。自分のニヤついた顔が窓に映っている……だけだ。街の明かりが見えない。電車のスピードが上がっている気もする。そろそろ次の駅についてもいいはずなのに。
「心配ご無用だよん、君で87人目だから」
おや、今度は縦座席の声ではないぞ、と若者は思った。その瞬間、窓を見ていた若者は、縦座席を見て、床を見て、激しく回る鉄の車輪を見た。
その後のことを、若者が知ることは無い。