珈琲日和 その17
夏も真っ盛りの午後。逃げ水と蜃気楼が我が物顔で町中を徘徊する暑いさなか、客足も途絶えてしまったので、僕は休憩がてら図書館から借りてきた本を読んでいました。その本は僕の好きな作家さんのシリーズ物で、丁度今読んでいる巻から盛り上がりを見せ始めていたのです。お陰で僕は最近暇さえあれば、そのシリーズを読み漁っているような有様でした。とにかく作家さんの書き方が上手くて一行読む毎に、恰もその話の世界に向かって一歩ずつ歩いて行っているかのように読み手を引きずり込むのです。その話は背筋が寒くなる程の本格的なホラー要素を持った本だったのです。僕は今までホラー物には全く興味がなく、あっても見向きもしなかったのですが、何故かその本には目が止まったのです。特別目立つような趣向を施されていた訳でも、目立つ所に展示されていた訳でもないのにです。まるで誘われるかのようにしてその本を手に取った僕は、まるで何かに誘われるかのようにして貸し出しカウンターへと借りられるだけの有りっ丈の巻数を持ち込んだのです。
窓の外の木漏れ日を作るポプラの樹の幹に不意に油蝉が飛んできて訴えかけるように鳴き出しました。読み耽る僕の横で、火にかけっぱなしになったケトルが蝉の声と合唱をし始めました。それまで窓辺近くでじっとして外を見ていた小太郎が、さすがに煩いのかすっと何処かへ移動していきました。ところが物語もちょうど蝉時雨の真っただ中。僕の意識はすっかり店から居なくなっていました。いよいよだ。この後どうなっていくのか・・・
「ちょっと・・・ちょっと、マスター。耳が遠くなっちゃったの?」
いつの間にか夏空のように青く眩しいワンピースの上に白いラフなシャツを羽織ったマリさんが、眉間に皺を寄せながら赤い爪とお揃いのピアスを揺らして、僕の正面のカウンター席に品良く座っていたのです。慌てて僕はお詫びをするとコンロのつまみを回して甲高い声で叫びにも似た歌声を発し続けているケトルの火を消しました。
「いつからこのお店はこんなに騒々しくなっちゃったのかしら。あたしの記憶が確かなら、ジャズやブルースなんかが粋に流れていた素敵な喫茶店だった筈なんだけど」
「大変申し訳ございません」僕は深々と頭を下げてお詫びをしました。
「別に謝らなくてもいいわよ。あたしみたいな一利用客が店の事にどうのこうのと口を出せる身分でもなし。この店の事はマスター次第なんだから。ただ、よくわかっているんでしょうけど、客っていうのは我が侭なものよ。自分の中の何かと合わなくなってしまえば、いくらお気に入りだったものも簡単に諦めてしまうって事、最近のマスターはなんだか忘れているような気がしてならないわ」
「はい。本当に仰る通りです」
「どんなに採算が取れていなくても、どんなに経営が苦しくなっても自分の拘りだけは捨てちゃ駄目よ。マスターの拘りに惚れて通っているお客だってきっとたくさんいる筈なんだから。それで、マスターの気をそこまで散らせている原因は一体なんなのかしら?」
まるで叱られた子どものような気持ちになりながら、勿論呆れられるのを承知で僕はマリさんの前に本を出しました。マリさんは驚くでもなく、呆れるでもなくその本を僅かにじっと見つめました。
「最近どうにも嵌ってしまいまして。つい店が暇なのを良い事に没頭してました」
「どこまで読んだの?」
「え?」マリさんの意外な問いに僕は深々と下げた頭を上げた。
「まだキーポイントとなる祖父の家には訪れていないのかしら?」
「ええ、まぁ。・・・って、え? マリさん、もしかしてもう読破された方ですか?」
「勿論よ。この人の本は残らず読んでいるわ。大ファンだもの」
「そうなんですか!じゃあ結末もご存知でいらっしゃるんですね。教えないで下さいよ。今すごく良いとこなんですから。これからなんですから。やっと半分真相がわかったんですから」
「はいはい。それより、あたしのマキアートはいつ出てくるのかしら?」
「ああ!申し訳ございません!大至急お作り致します!」
あたふたと豆を挽いたりお湯を沸かしたりする僕を横目でしんなりと眺めながら、マリさんはふっと軽く笑ってマスターもまだまだ若いわねと言いました。
「大変お待たせ致しました。そんな事はありませんよ。僕はただ集中すると周りが見えなくなるだけなんです。いい加減に落ち着けばなんて彼女にもよく言われるくらいですから」
僕はそう言いながらマキアートをマリさんの前に置きました。勿論カップに浮かぶ模様は今回の本の中のキーワードの村の名前を入れてみました。しかもホラー風味に。
「・・・悪趣味ね」
マリさんは今度こそ呆れたようにそう口では言ったものの、チョコでペイントされたその村の名前を崩さないように慎重に啜っていたのを僕は見逃しませんでした。
「彼女にも読ませてあげたの?」
「いえ。彼女は帯に書いてあったあらすじだけ読んで、その、・・・怖がってしまったので」
「あら。可愛いじゃない。女の子らしくて」
「はぁ。まぁそうなんですけどね」
「そうじゃないような言い方ね」
「はぁ。まぁそうなんです。彼女とは子どもの頃からの長い付き合いなので、ある程度はわかったつもりでいたんですが。あんな意外な盲点があったなんて」
「あの子案外クールそうなのに」そう言うとマリさんは面白そうに笑いました。
「・・・笑い事じゃないんですよ」
この間の店の休みに、彼女はいつものように夕食を作りに来たのです。物心つく頃には母親と二人の生活だったせいか彼女は大雑把にならある程度の料理は作れたのでが、最近、もっとレパートリーを増やしたいと言って使った事のない調味料や食材を買い込み、僕の休みの日の夕方、決まってうちの台所に料理本片手に立つようになっていました。お陰で悪戦苦闘している彼女を眺めながら僕はビールを飲んだりのんびりと過ごす事が出来ていたのですが。その日も彼女はいつものように食材を持って訪れ、台所で騒がしい音をたてていました。僕はビールも飲まずに例の本を例の如く集中して読み耽っていたのです。物語はまだ始まったばかりでしたが、もう充分に惹き付けられていた僕は彼女の話を全く聞いていなかったようなのです。気付くと不機嫌そうな顔をした彼女が、僕の持つ本の表紙をじっと覗き込んでいました。本には不気味な絵と共に古びたタイトルカバーがついていました。彼女はそのカバーに小さく印刷されたあらすじを読んでいたのです。
「・・・なにこれ」そう呟くように口にした彼女の顔は何故か強ばっていました。
「これって? 本だよ」
「なんの本を読んでいるのよ、あなたは」ゆっくりと怒るような口調で彼女は問いてきます。
「え? ホラーだと思うよ」僕はページから目を離すと本の裏と表を交互に見てから答えました。
「どうしてそんなもの読めるのよ。怖くないの?」
「怖い? あぁ。うん。まぁ、怖いっちゃあ怖いけど。これ面白いよ」
「何処が面白いのよ。人が死ぬような話の何処が? いかれてるわ」彼女は眉間に皺を深く寄せて更に突っ込んできます。
「なんだよそれ。そんな言い方ないだろう? 面白い話を面白いっていって悪いの?」
「そんなもの面白くもなんともないわ。怖いだけよ。そんなもの読むなんてどうかしてる」
窓の外の木漏れ日を作るポプラの樹の幹に不意に油蝉が飛んできて訴えかけるように鳴き出しました。読み耽る僕の横で、火にかけっぱなしになったケトルが蝉の声と合唱をし始めました。それまで窓辺近くでじっとして外を見ていた小太郎が、さすがに煩いのかすっと何処かへ移動していきました。ところが物語もちょうど蝉時雨の真っただ中。僕の意識はすっかり店から居なくなっていました。いよいよだ。この後どうなっていくのか・・・
「ちょっと・・・ちょっと、マスター。耳が遠くなっちゃったの?」
いつの間にか夏空のように青く眩しいワンピースの上に白いラフなシャツを羽織ったマリさんが、眉間に皺を寄せながら赤い爪とお揃いのピアスを揺らして、僕の正面のカウンター席に品良く座っていたのです。慌てて僕はお詫びをするとコンロのつまみを回して甲高い声で叫びにも似た歌声を発し続けているケトルの火を消しました。
「いつからこのお店はこんなに騒々しくなっちゃったのかしら。あたしの記憶が確かなら、ジャズやブルースなんかが粋に流れていた素敵な喫茶店だった筈なんだけど」
「大変申し訳ございません」僕は深々と頭を下げてお詫びをしました。
「別に謝らなくてもいいわよ。あたしみたいな一利用客が店の事にどうのこうのと口を出せる身分でもなし。この店の事はマスター次第なんだから。ただ、よくわかっているんでしょうけど、客っていうのは我が侭なものよ。自分の中の何かと合わなくなってしまえば、いくらお気に入りだったものも簡単に諦めてしまうって事、最近のマスターはなんだか忘れているような気がしてならないわ」
「はい。本当に仰る通りです」
「どんなに採算が取れていなくても、どんなに経営が苦しくなっても自分の拘りだけは捨てちゃ駄目よ。マスターの拘りに惚れて通っているお客だってきっとたくさんいる筈なんだから。それで、マスターの気をそこまで散らせている原因は一体なんなのかしら?」
まるで叱られた子どものような気持ちになりながら、勿論呆れられるのを承知で僕はマリさんの前に本を出しました。マリさんは驚くでもなく、呆れるでもなくその本を僅かにじっと見つめました。
「最近どうにも嵌ってしまいまして。つい店が暇なのを良い事に没頭してました」
「どこまで読んだの?」
「え?」マリさんの意外な問いに僕は深々と下げた頭を上げた。
「まだキーポイントとなる祖父の家には訪れていないのかしら?」
「ええ、まぁ。・・・って、え? マリさん、もしかしてもう読破された方ですか?」
「勿論よ。この人の本は残らず読んでいるわ。大ファンだもの」
「そうなんですか!じゃあ結末もご存知でいらっしゃるんですね。教えないで下さいよ。今すごく良いとこなんですから。これからなんですから。やっと半分真相がわかったんですから」
「はいはい。それより、あたしのマキアートはいつ出てくるのかしら?」
「ああ!申し訳ございません!大至急お作り致します!」
あたふたと豆を挽いたりお湯を沸かしたりする僕を横目でしんなりと眺めながら、マリさんはふっと軽く笑ってマスターもまだまだ若いわねと言いました。
「大変お待たせ致しました。そんな事はありませんよ。僕はただ集中すると周りが見えなくなるだけなんです。いい加減に落ち着けばなんて彼女にもよく言われるくらいですから」
僕はそう言いながらマキアートをマリさんの前に置きました。勿論カップに浮かぶ模様は今回の本の中のキーワードの村の名前を入れてみました。しかもホラー風味に。
「・・・悪趣味ね」
マリさんは今度こそ呆れたようにそう口では言ったものの、チョコでペイントされたその村の名前を崩さないように慎重に啜っていたのを僕は見逃しませんでした。
「彼女にも読ませてあげたの?」
「いえ。彼女は帯に書いてあったあらすじだけ読んで、その、・・・怖がってしまったので」
「あら。可愛いじゃない。女の子らしくて」
「はぁ。まぁそうなんですけどね」
「そうじゃないような言い方ね」
「はぁ。まぁそうなんです。彼女とは子どもの頃からの長い付き合いなので、ある程度はわかったつもりでいたんですが。あんな意外な盲点があったなんて」
「あの子案外クールそうなのに」そう言うとマリさんは面白そうに笑いました。
「・・・笑い事じゃないんですよ」
この間の店の休みに、彼女はいつものように夕食を作りに来たのです。物心つく頃には母親と二人の生活だったせいか彼女は大雑把にならある程度の料理は作れたのでが、最近、もっとレパートリーを増やしたいと言って使った事のない調味料や食材を買い込み、僕の休みの日の夕方、決まってうちの台所に料理本片手に立つようになっていました。お陰で悪戦苦闘している彼女を眺めながら僕はビールを飲んだりのんびりと過ごす事が出来ていたのですが。その日も彼女はいつものように食材を持って訪れ、台所で騒がしい音をたてていました。僕はビールも飲まずに例の本を例の如く集中して読み耽っていたのです。物語はまだ始まったばかりでしたが、もう充分に惹き付けられていた僕は彼女の話を全く聞いていなかったようなのです。気付くと不機嫌そうな顔をした彼女が、僕の持つ本の表紙をじっと覗き込んでいました。本には不気味な絵と共に古びたタイトルカバーがついていました。彼女はそのカバーに小さく印刷されたあらすじを読んでいたのです。
「・・・なにこれ」そう呟くように口にした彼女の顔は何故か強ばっていました。
「これって? 本だよ」
「なんの本を読んでいるのよ、あなたは」ゆっくりと怒るような口調で彼女は問いてきます。
「え? ホラーだと思うよ」僕はページから目を離すと本の裏と表を交互に見てから答えました。
「どうしてそんなもの読めるのよ。怖くないの?」
「怖い? あぁ。うん。まぁ、怖いっちゃあ怖いけど。これ面白いよ」
「何処が面白いのよ。人が死ぬような話の何処が? いかれてるわ」彼女は眉間に皺を深く寄せて更に突っ込んできます。
「なんだよそれ。そんな言い方ないだろう? 面白い話を面白いっていって悪いの?」
「そんなもの面白くもなんともないわ。怖いだけよ。そんなもの読むなんてどうかしてる」