爪を売る少女の話
じりりと、指先が疼いた。生々しい光景が脳裏に浮かび、最初はささやかな寒気であったものが数秒のうちに凍傷を起こした。じりじり。
その貼り紙から目が離せなかった。視界の端に真っ白な脚が映り込んだが、焦点は貼り紙の上に居座ったまま。じりじり。生ぬるい風がさあっと吹いた。白いスカートがふわっと膨れた。ほんのり赤い膝小僧が顔を覗かせて――。
「お客さんですか」
驚いて横を向くと目が合った。少女が不思議そうにこちらを見ていた。自分の意識はいつの間にかこの子の脚だけへ向けられていたらしい。
「あの」
そう言ったところで先程のじりじりが蘇る。これは一体、と音色を作るはずだった呼気は声帯を震わせることなくすり抜けていってしまった。情けない話だ。恐る恐る貼り紙を指差す。少女が人形のような、或いは機械仕掛けのような精巧な笑みを浮かべて、じりり。
沈黙が酷く長い。指先を針でつつき続けられているような。じりじり。実際には数秒もなかったのかもしれないが、数える余裕はない。爪の間から毛虫が這い出してきたような。じりり。
少女はこちらの様子を窺うようにして黙っていた。視線が自分から逸れて貼り紙に行き、また戻ってくる。ゆっくりと首を傾げて、唇を開き、「祖父のウリです。とてもおいしいですよ」
何を言われたのか、理解できなかった。
「形が悪くて市場に出せないのをうちで売っているの。でも味は変わりませんわ」
ようやく先の台詞を脳内で漢字変換することができた。言葉を続けるわけでもなく溜息が漏れる。ああくだらない。少女は目をぱちくりさせ、貼り紙を覗き込み、そして。
「――ああ!」
ぺちんと(パチンではなく、確かにぺちんと)両の頬をたたいた。「瓜、瓜だわ。いやだ、おじいちゃんたら」
指先の痛みはとうにどこかへ飛んで、入れ替わりに笑いが込み上げて指までじんわりと熱くなる。その日は漬物石みたいな瓜を一つ、食べ方も知らずに買って帰った。
翌日もその店の前を通った。見ればまだ爪を売っていたので思わず中に入る。昨日の少女はこちらを見ると誰であるかすぐに分かったようでぱたぱたと駆けてきた。たんぽぽが一斉に綿毛を飛ばすような笑顔。昨日とは随分と印象が違う。
「まだ書き直してないんですね」
「それがね、ふふ、祖父ったらおかしいんです。わざとそう書いたんだァ。できそこないの瓜なんざ瓜じゃねえ。爪で十分だァ、て」
頑固じじいの屁理屈なんて可愛いはずもないのだが、真似をする少女の声色が愛おしくてくつくつ笑った。彼女も口元を押さえてくすくす笑った。実際のところ二人の笑った理由は噛み合っていないのだが、全く問題にはならなかった。くつくつくすくすとしばらく笑い合って、ようやくその声がく、く、く、となってきた辺りで「でもそれじゃあ、客が来ないですよ」
「ですよねえ」
「そうですよ」
会話はそれ以上続かない。笑いも止んでしまって、いよいよ手持無沙汰だ。ただここで帰ってしまうのは惜しい気がした。
「でも、私も、このままでいいかもって思うんです」
そわそわと店内を見回していると、目元を擦りながら少女が呟いた。
「どうして? 瓜が売れませんよ」
「だって、爪だったからお兄さんとお近づきになれたんでしょう?」
そういえば、そうだ。食べ方も知らない自分がわざわざ瓜を買ったりはしない。帰ったら調理法を調べようと思いながら、本日とれたての爪をまた一つ手に取った。