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novelistID. 42759
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pink

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「みちるちゃん、満散お姉ちゃん、あのね」
 妹の少しおどおどとした声を聞いたその瞬間に、自分の指先を彼女に預けていた今までを後悔した。
 自分の体を他人に任せるということは恐ろしい。それに慣れてしまうことも。聞きたくないことから逃げ出すことも耳を塞ぐことも叶わないから。
 左手は自由だった。けれど右手は今まさに三本目が薄い桃色に染め上げられているところで、このまま妹の手をふりほどいてしまえば中指の真ん中だけが地の色と桃色との不格好なストライプでいなければならなかった。
 そんな些細なことに躊躇している間に細い刷毛が器用に動いて、今度は中指の右側が同じ色に変えられる。左も同じようにして、中指が完成した。一度刷毛を小瓶に戻して、液体を含ませる。何度も見ていたその動きを、私は無言で追った。
「私とお姉ちゃん、お父さん違うんだって」
 刷毛を狭い桃色の海で泳がせているのを見つめながら妹は言った。私は自分の爪をじっと見ていた。乾き具合の違う三本の指がそれぞれ違う風に照り返している。

 ──満散の指はお母さんにそっくりですねえ

 唐突に母の声が蘇った。私の手を見る度に、嬉しいような悲しいような、そんな複雑な色を滲ませていた声。似ていることや同じことは嬉しい。それがあまり美しいものでなくても、家族の証のようだから。
 だから私も母と同じ気持ちでこう返していた筈だ。

 ──こんな子供っぽい指うつらなくてもいいのに。貴帆が羨ましいわ、あの子の指は綺麗だから

「……お姉ちゃん、知ってた?」
 重苦しい沈黙を妹が破った。私に似ていない、母にも似なかった細く長い指が私の手を包んだ。冷たい指先はいつも以上に白い。手の温度が低いとき、人は緊張しているという話を思い出す。まさかこの妹が緊張なんてするのか、と些か彼女に失礼なことをちらと考える。ふわふわとおっとりとして、少し気のつかない妹。いつも世話を焼きすぎてしまう、妹。半分だけ血のつながった。
「……」
 知っていたわ、うっすらとだけど、と勉強を教えてやるような調子で言えばよかったのに、言葉は喉を脱出することが出来なかった。唇が少しだけ動いて閉じるだけ。酸素を求めてあえぐ魚のように。
「お母さんの日記、見ちゃったの。死んじゃった人だから、見てもいいかなって。お母さん、いつも笑ってたから、何も分からなかったから」
「貴帆、駄目じゃない」
 反射的に口から叱責が飛び出す。私の小さい爪をせっせと染める右手が微かに震えた。

 ──貴帆の指は、誰に似たのかしら

 記憶の中の私の声と、妹の声が重なる。
「私のお父さんじゃなかった」
 妹は今泣いているのだろうか。私には彼女の顔を見ることが出来ない。妹ももういい大人だし、両親は既にどちらも死んでいる。ショックであっても泣くことはないだろう。
「お姉ちゃんのお父さんが、私が知ってるお父さんだった」
「……そう」

 ──貴帆ちゃんは、誰に似てしまったんでしょうねえ

 困ったように笑う母。曖昧な視線。申し訳なさそうに動く唇。
 ……なぜ、あの人は自分の夫にも隠し通そうなどと考えたのだろう。露見してはいけない相手だったから?私と貴帆の為?

「お姉ちゃん、知ってたんだね」
 いつの間にか私の爪は全て薄い桃色へと変色していた。桜の色なのだと妹が教えてくれたような気がする。爪の小さな私でも映える程度の地味な単色。
「お姉ちゃんは、いつもなんでも知ってるね」
「そんなことないわ。貴帆、いい加減にしなさい」
「お姉ちゃんはなんでも持ってるしなんでも知ってるよ。私は馬鹿で、なんにも知らない。自分のお父さんのことすら」
「きほ」
 ゴトン、と鈍い音がした。反射的に伸ばした腕にマニキュアの瓶が当たって倒れてしまったらしい。閉まりきっていないキャップが抜け落ち、トロリと桜色が流れ出す。ツン、と独特の臭いがした。
 妹はいつもこうだ。うっかりと蓋を閉め忘れたり、だから私がついていなければならないのだ。何も出来ない、かわいい妹。
「お姉ちゃんもお母さんも褒めてくれたから、私自分の指、好きだった。それだけはお姉ちゃんに勝ててたから」
 美しい爪を持った彼女が言った。羨ましいわ、と何度も何度もそれだけは褒めていた。細くて綺麗な楕円の貝殻みたいな爪、白魚の指。
 彼女はもう、その指を愛でることはしないのだろうか。その指が、見ず知らずの父親のものであるという証拠なんて、どこにもないのに。
 馬鹿な妹、なんて愚かな妹。
「……お姉ちゃんは、全部持ってるから、そんな目で私を見れるんだ」
 妹の声なんて聞こえない。私には自分の少しだけ綺麗になった指と、彼女の美しい指先しか見えない。
作品名:pink 作家名:大文藝帝國