空をゆく対話
なんとも古びた遊園地であった。
セピア色の眼鏡でも掛けているかのようだった。
コーヒーカップもメリーゴーランドもジェットコースターも、その節々から公園のシーソーのような悲鳴が聞こえてくる気がした。
黄ばんだ白いプラスチックの椅子とテーブル。骨の錆びたパラソルの下で、僕はお小遣いで買ったソフトクリームを舐めていた。店員のおばさんはソフトクリームを盛るのがへたくそで、僕は上半分を急いで食べなければならなかった。それでもソフトクリームは刻一刻と安物のコーンに染みていく。
炎天下。
動かない風と止まない蝉の鳴き声に、僕の視界と思考がぼやける。
一人でいる子供の僕を不審がる人の影すらこの遊園地にはいない。
あちこちで気味の悪い静寂の轟音をあげているアトラクションに、果たして人が乗っているのか。僕はそう思った。
僕を仕方なくという名目で無理矢理ここへ連れてきた両親は、彼らの愛する僕の妹とともにこの錆び付いた遊園地のどこかで家族の休日を満喫しているはずだ。
僕は、自分がこのままこの遊園地へ置き去りにされる気がしてならなかった。ここなら寂しくないでしょう、そう言って、彼らは僕を夢の国へ縛りつけるのだ。そうして彼らは僕に背を向け、長い夢から目を覚ます。
僕は、もし本当にそうなったらこの夢の中で何をしようかと考えた。
へたくそだけど、ソフトクリームは毎日食べられる。
メリーゴーランドでは毎日違う馬に乗れるし、馬車の中で昼寝もできる。
空中ブランコに立ち乗りしてみたい。
ジェットコースターの線路を歩いてみたい。
コーヒーカップは自分では回さない。
観覧車は気が向いたときだけ。
移動はゴーカートを使えばらくちんだ。
…それから、ピエロ。
ピエロを見つけて、もしも友達になれたら、風船をもらおう。
僕はその風船で空を飛ぶんだ。ジェットコースターより、空中ブランコより、観覧車よりも、もっとずっと高く。
白いテーブルに奇妙な形の影が落ち、僕ははっと我に返った。
手が溶けたソフトクリームでべとべとになっていた。ふにゃふにゃになったコーンを見つめて、不味そうだなと思ってから、僕はゆっくり視線を上げた。
彼が笑っていないことは、一目でわかった。メイクの奥の目と口は、メイクと正反対のものだった。
カラフルで暑そうな服、ふわふわの髪、その上の大きな帽子、赤い丸い鼻。
そして、手にはたくさんの風船。
ピエロは無言で僕の正面の椅子を指さして首をかしげた。
僕が無言でうなずくと彼は耳障りな音をたてて椅子を引き、そこに座った。
ピエロはメイクの向こうからまっすぐに僕を見つめた。僕も彼をじっと見つめる。
「こんなに早く会えるなんて思ってなかった」
僕が言うとピエロはゆっくりとひとつまばたきをした。
「ピエロって喋れないの?」
口をぱくぱくさせる彼。
「そう…」
僕は、せっかくピエロと友達になれても、おしゃべりができなかったらなぁと思った。
ピエロはあたりを見渡して、それから首をかしげた。
「家族と一緒だよ。でもどこにいるかわかんない。僕は待ってるんだ」
僕は言葉がないのに彼の言いたいことが分かることに驚いていた。
ピエロはなにか言いたげに僕を見つめる。『ど・う・し・て・?』そう言っているのだ。
「邪魔だからだよ」
ピエロは少し困ったような顔をして、それから右手に持ったたくさんの風船を見上げた。僕はもう少し仲良くなったら風船をひとつもらえないか頼んでみようと思った。
「風船、いっぱいだね」
ピエロはうなずいた。
「僕ね、空を飛んでみたいんだ。空中ブランコとか観覧車なんかじゃなくね」
僕がそう言うと、ピエロは初めてほんの少しだけ目を細めた。
不意にピエロが立ち上がり、椅子がまたガタガタと音を立てた。僕が見上げると彼はこんどこそ本当に笑顔を浮かべて、テーブルを覆う錆びたパラソルを片手で軽々と引き抜いた。攻撃的なまぶしい日の光が僕に降り注ぐ。ピエロはパラソルを片手で器用に放り投げた。僕はソフトクリーム屋さんのおばさんに怒られるんじゃないかとはらはらしながら見守った。ピエロは手を目の上に当ててパラソルを見送るような動作をすると、今度は正面の僕に向かって覆い被さるように腰をかがめた。僕は少し驚いて顔をそらして身をすくめた。一瞬のことだった。ピエロはすぐに僕の正面の椅子に身を戻した。
僕が疑問を投げかけるよりはやく、ピエロは両の手を僕に向けて開いたり閉じたりして見せた。
「あれ?風船…」
ピエロは僕を指差した。僕はまず自分の両手を見て、それから自分の左右を見た。そして、斜め右方向に、それはあった。椅子の背もたれの右角に、たくさんの風船がまとめてくくりつけてあった。
「くれるの?」
ピエロは満足そうに机に両肘をついて手のひらの上に顔を乗せた。子供みたいな仕草だった。僕は嬉しくなってピエロと風船を交互に見た。
僕はこの古いプラスチックの椅子と机と、そしてピエロと僕が風船の力でふわふわと空を漂っているような気持ちになった。風が前髪を撫でる。僕は手の中でぐちゃぐちゃになったソフトクリームを思い出し、左手の指を舐めた。なぜかとても楽しくなってきて、僕は声をあげて笑った。ソフトクリームを空に放り投げる。ソフトクリームはすぐに落ちて来て、テーブルの上にぐしゃりと潰れた。それを見て僕はさらに笑った。ピエロも向かいで手を叩いて声を出さず大笑いしていた。僕は椅子の肘掛けに手を付き、足を椅子に上げた。バランスを取りながら、そっとそのまま椅子の上に立ち上がる。
「風船、ありがとう。でも僕、ひとつでいいや。しぼんじゃったらまたちょうだい」
ピエロは微笑んだ。
僕はたくさんの風船の中から赤い風船を選び、その一本を椅子から外した。赤い風船の細い紐を握りしめ、僕はそっと椅子からテーブルに片足を掛ける。テーブルがふわふわと揺れ、すこし怖くなったけど、僕は思い切ってもう片方の足もテーブルに持ち上げた。空を飛ぶテーブルの上に、僕は立った。ピエロが僕を見上げている。僕は最後にもう一度、ピエロを見た。
「僕たち、友達?」
ピエロは「さぁ?」というように両腕をあげ首をかしげて笑った。
僕は満足して、テーブルを蹴った。
僕は、空を飛ぶ。
ピエロは静かに席を立った。
丁寧に椅子を戻し、くるりと背を向け、歩き出す。
角を曲がる前に最後にそっと、視線だけで振り返る。
真っ白なテーブルと椅子。すぐ近くの地面に転がったパラソル。テーブルの上のソフトクリーム。椅子にくくりつけられた風船。
ピエロはまっすぐ空を見上げた。
赤い風船がひとつ、空を飛んでいた。