Avec Toi
「あれ、煙草の匂い。夕紀、煙草吸ったっけ?」
私をぎゅうと抱き締めて、律くんが言った。律くんはいつも、ほんのり汗の混じった律くんの匂いがする。
「ううん、吸わないよ。さっき喫煙席にいたから、匂いがついちゃったのかも……」
「喫煙席? 駄目だよ。煙草の煙は体に悪いんだって――夕紀、肺を悪くしちゃうよ。体も丈夫じゃないんだから」
そう言いながら律くんは私の背中をさすった。律くんはいつも、私を心配してくれる。私を大事にしてくれる。それがとても嬉しくて、彼の大好きなところだ。
「肺を悪くしたら、痛いのかな?」
「痛い痛い。すごく痛い。絶対泣くよ、夕紀」
少々大げさに目をつり上げて、私を脅かす。知識の乏しい私に、律くんは何でも教えてくれる。律くんは物知りで、私の見たこともないようなことをたくさん経験していた。
「泣くのはやだな。それって、どのくらい痛いのかな」
「そうだなあ……夕紀、顔あげて」
「え、いたっ!」
律くんのデコピンが私のおでこに炸裂した。弾かれたところがじんじんする。「これの百倍、いや、もっとかも」と言われて、律くんはすごいなあと思った。
私のお父さんは過保護な人だった。私は律くんと出会うまで、痛いとか苦しいとかいう経験をほとんどしたことがなかった。律くんはそれじゃあ私のためにならないと言う。律くんは何より私のことを考えてくれる人。デコピンの百倍痛い行為に私が身を投じないように、こうやっておでこをパチンとしてくれる。だから大好きだ。
「ごめんね夕紀、痛かった?」
「うん、痛かった。律くんありがとう、私、喫煙席にはもう行かないね?」
今度は私が律くんをぎゅうっとした。おでこがじんじんするのは幸せなことだと思った。
「律くん、律くん。あのね? 村田先輩がね、日曜日ボウリングに行こうって」
村田先輩は、高校の頃美術部で私と律くんに絵を教えてくれた人だった。絵に関しては律くんよりもたくさんの事を知っている。
「ボウリング? 夕紀、ボウリングやったことあるの?」
「ううん、テレビで見たことしかない。ボールを投げるんだよね?」
「ゆき、ゆき。あのボール、どれくらい重いか知ってる? 一番軽くても、2Lのペットボトル――それ以上あるよ?」
そんなものを片手で投げるなんて――。私はぞっとして、手首をさすった。村田先輩は絵のことはたくさん知っているけど、それ以外は律くんの方がよく知っている。私にそんな重いものが持てるはずなかった。
「ボウリングって怖いんだねえ」
「俺が一緒なら痛くない投げ方教えてあげるよ。だから俺と二人で行こう?」
律くんの手はあったかい。過保護なお父さんみたいに、駄目なものは駄目だと叱りつけたりしない。律くんがいれば私は何でもできるような気がした。
「それにしても……ねえ夕紀、まだ村田先輩と連絡取ってたの?」
不意に、律くんの声が曇った。私は顔をあげて律くんの手を握る。
私は大学に入っても絵を続けていた。だから村田先輩にはたまにメールをする。ごく当たり前のことで、律くんも知っているものと思っていた。
「村田先輩が優しい人なのは知ってるよ。でも夕紀は可愛いから……」
「大丈夫だよ。私、律くんが一番好きだよ? ――っきゃ!」
突然、律くんの腕が伸びてきて、私の視界がひっくり返った。床に頭を打ちつけて私が痛いと言う頃には体を押さえつけられていて。
「痛い、よ、律くん……?」
「痛いよね、夕紀。ごめんね。でも、村田先輩と俺、どっちの腕が太いか知ってる? 先輩がこうやってゆきを押し倒したら夕紀は逃げられないでしょ? ねえ、これよりもっと痛いんだよ? ゆき。俺はただ、夕紀が心配で……」
頭も肩も背中も腕も痛かった。痛かったけれど、それ以上に律くんが私のことを心配してくれることが嬉しかった。律くんがいればもっと痛い思いをしないですむことも嬉しかった。ああ私は、律くんがこんなにも大好きだ。
「…………ありがとう、律くん」
だけど律くんは笑っていなかった。泣きそうな顔をしていた。律くんはもう私の体を押さえつけてはいなかったけれど、私は起き上がることができなかった。「律くん?」
「――ごめんね夕紀」
小さな声が耳元で掻き消えた。律くんはやっぱり、泣きそうな顔をしていた。
「俺、嘘ついた……ゆき。夕紀が心配なのはもちろんだけど、それ以上に俺……俺が苦しいんだ」
「律くん……苦しいの……?」
「ねえゆき、もしも俺が死んじゃったらどう思う?」
律くんが死んじゃったら――想像して、頭の中が真っ白になった。律くんがいなかったら私は、怖いことや痛いことだらけの世界で生きなければいけない。もしくはお父さんがしたように、全てのことから逃げて生きなければならない。あったかい手に包まれることなく、一人ぼっちで生きなければいけない。胸がきゅうっとなって、心臓がバクバクいっていた。息ができないくらい苦しかった。
「夕紀が他の男の人と一緒にいると思うと俺は、その百倍も苦しくなるんだ。夕紀の隣は俺じゃないと嫌だ。わかって、くれる?」
律くんがぎゅっと私を抱き締めた。律くんがいる。私はほっとして、自然な呼吸ができるようになる。ああ私はこんなにも、律くんが大好きだ!
「ごめんね律くん……私、ずっと律くんの隣にいるからね」
律くんが私を痛い目にあわせたくないのと同じように、私も律くんにこんな苦しい思いをしてほしくなかった。
「律くんは私のために私から離れられないけれど、私も律くんのために律くんから離れられないんだね。ねえ、これってすっごく幸せなことなのかな?」
律くんがはにかんで、そうだねと頷いた。私たちは世界で一番お似合いの恋人同士なのではないかと思って、少し恥ずかしくなった。