Savior 第一部 救世主と魔女Ⅲ
幸いなことに、切れたのは片側だけだった。おかげで落下せずに済んだものの、切れた勢いで蔓は振り子のように大きく揺れて、ゼノ達を裂け目の向こう側まで運んでいく。裂け目の真ん中くらいまで来たところで振り切って止まってしまったので、咄嗟に蔓から手を離して別の蔓に飛びついた。その勢いで、また振り子のように滑空し裂け目の反対側に近付いていく。スピードが落ちて止まってしまうその直前に、蔓から手を離した。そして、
どざあっ。
ひらひらと舞い上がった木の葉が飛んだ。繁みの枝が腕やら脚やらに当たって少し痛い。何が起こったんだ、と一瞬わからなくなったゼノが状況を把握する前に、背中から感心したような声が聞こえた。
「ゼノ殿すごいです! 落ちずにこっち側まで渡れましたね!」
シリルのその台詞で、ゼノははっと我に返った。周囲を見回して、ようやく自分がなだらかな斜面に上手く軟着陸したことを把握する。振り返ると、さっきまで滑落していた急斜面が見えた。その上では、猪達が雁首揃えてこちらを睨みつけている。とりあえず、助かったらしい。
「お、おう! オレが本気を出せばこれくらい楽勝だぜ!」
ゼノは腰に手を当て、胸を張ってそう言った。まあまさか蔓が切れるとは思わなかったのだが。落ちるのを止めて、樹の上に上がれたらという心積もりだったのだ。予想外の事態だったが、裂け目のこっち側に渡れたので万々歳である。あの時の自分の判断力を褒めたい。
猪達は裂け目の上に並んでこちらを睨みつけるだけで追ってくる様子はない。裂け目はなかなか深いし、下に行くほど急斜面になっているからだろう。幸いなことにゼノ達が今いる位置は斜面の傾きが緩やかで、登るのは苦労しなさそうだ。とりあえず安全そうなので、ゼノは背中のシリルを下ろした。
「でも、これで戻れなくなっちまったなぁ。おまえをコノラトに連れて行くべきだったんだけど・・・・・・」
現在位置がゼノの予想する通りなら、おそらく方向的に猪達がいる方が森の出口に近い。猪達は思惑とは裏腹にゼノ達を森の奥へ追い込む結果となった訳だ。そしてそれは、シリルだけコノラトへ返したかったゼノの思惑とも外れることになる。
ひょっとしたら、出ると言えば猪達は追いかけたりせずに外へ出してくれるかもしれない。でも今まで散々追いかけられたことを鑑みるに、出ることは出来てももう一度入ることは難しいだろう。キーネス達はどうしたのか知らないが、これ以上鬼ごっこをするのは体力的にも、そして時間的にもできない。
「あの・・・・・・ゼノ殿はどうして森の奥に行きたいんですか? 皆さんが心配だからですか?」
ゼノの顔を覗き込むように、シリルがそう問いかける。そういえば、シリルには説明していなかったっけ・・・・・・。その事実に思い至って、ゼノは焦った。
「あ、すまねえ! おまえになんも言ってなかったな・・・・・・。ええっと、オレが無理の奥に行かないといけないのは、キーネスを助けたいからで、どうしてか分かんねえけど今までそれを忘れてて、それで――」
奇妙なことに、あれほど“あの場所”へ行かなければならないと思っているにも関わらず、そうしなければならない理由は自分でもよく分からないことに改めて気づいた。しなければならないという思いだけが先行して、肝心なことは霞みがかかったように思い出せない。
「何かがあったんだ。それでキーネスを助けなきゃいけない。このままじゃティリー達も危ねえんだ」
でも・・・・・・でも、何が危ないんだ? 説明しようとすればするほど、それは曖昧になって掴みとれなくなる。
「くそっ! 頭の中がぐちゃぐちゃだ! でもオレはやらなくちゃならないんだ。キーネスを助けないと。それに、アイツも――」
「“アイツ”? アイツって・・・・・・」
「それは、えーっと――すまねえ。オレ馬鹿だから上手く説明できねえ。もうちょっと思い出せれば、きっと――」
どうしてだか分からない。分からないが、とにかく自分は大切なことを忘れているらしい。今はそれだけしか分からない。
「ゼノ殿はキーネス殿を助けに行かないといけないんですよね」
頭を抱えるゼノに、シリルは優しくそう言った。
「キーネス殿が危ないということは、一緒にいるティリーさん達も危ないということでしょう? なら、速く行きましょう。森の奥に。わたし、邪魔にならないように頑張りますから」
健気に告げるシリルを見て、ゼノは頭をわしわしと掻いた。全く自分が情けない。護衛対象の、それも年下の女の子に気を使われるなんて。でも、今は彼女の言葉がとてもありがたかった。
「・・・・・・分かった。すまねえシリル。おまえが危ない目に合わないよう、全力で守ってやるからよ」
民間人を守るのが退治屋の仕事。まして、無力な女の子を自分の事情につき合わせているとなればなおさらだ。ゼノは気合を入れ直すと、裂け目の反対側で睨む猪達を尻目に、森の奥へと歩き始めた。
ぱき、と足の下で落ちていた枝が鳴った。
その音でアルベルトは我に返った。どうやらぼうっとしていたらしい。疲れているのだろうか。集中力が落ちているのだ。先ほど町を出たばかりなのにもう疲れただなんて、昨晩はそんなに寝つきが悪かっただろうか。
一歩先にリゼの後姿がある。彼女は疲れなど欠片もない様子で、さっさと歩いていく。仮にも女性に体力で劣ったとなれば、さすがに沽券に関わるかなとアルベルトは苦笑した。
最も、リゼは下手をすると疲れどころか怪我していることさえ碌に表にしなかったりするのだが。いくら癒しの術を使えるからといって、怪我を全く気にしないのは心配だし心臓に悪い。疲れも大事な時ほど言わないし、もっと信用してくれてもいいと思うのだが――
――ああそうだ。これからどこへ向かうのだったか。ふとそう思って、アルベルトは取り出した地図を広げた。今から向かうのは確か南。コノラトという農業の町だ。そこで魔物の情報を得ようと、そう提案した。アルベルトは地図を仕舞うと、少し歩を速めてリゼの隣に並んだ。そうして――
「・・・・・・? 何があったんだ・・・・・・?」
「どうしたの?」
アルベルトの呟きに、リゼがそう問いかけた。少しの間、戸惑っていたアルベルトは状況を理解できないまま、リゼに質問した。
「すまない。ここがどこだかわかるか? さっきまで港にいたはずなんだが――」
「何を言ってるの。ここはルルイリエでしょう?」
リゼが口にした単語を聞いて、アルベルトは首を傾げた。ルルイリエなんて地名は聞いたことがない。少なくともアルヴィアにはそんな名前の土地はないはずだ。ということはミガーの町の名だろうか。しかしミガー王国には今しがたついたところで、まだこの国の地図すら見ていない。
「ここはメリエ・セラスじゃないのか?」
「メリエ・セラス? そこはもうずいぶん前に出発したじゃない」
「出発した? どういう意味だ? さっき港についたばかりで――」
「そんな訳ないでしょう。これからルルイリエを出て、コノラトへ向かおうと言ったのはあなたよ」
作品名:Savior 第一部 救世主と魔女Ⅲ 作家名:紫苑