天使の慈愛
思わず、互いに驚きの声が漏れる。
福岡白金と言えば、中洲や天神の喧騒から、ほんの少し外れた大人の街。
だから、この辺りを好んで住む人々も少なくない。
私が去年、赤坂の単身マンションからここに住み変えたのも同じ理由だ。
東京本社時代、あるプロジェクトでの部下の扱いに関し、当時上司だった役員に猛反発した代償が、もう、4年にもなる福岡の単身赴任。
最初の3年は、何とか、本社に返り咲こうともがき、強引に数字を挙げたが、今や実力役員としての地位を確立した彼と、一介の部長職とでは勝負にならず、全て黙殺されている。
東京生まれの妻は、そんな私を負け犬、と冷ややかな目で見る様になり、月に一度の帰宅時でも、私との会話は殆どない。
恐らく、来年、一人娘の就職を機に、離婚を言い出すだろう。
男、52歳。
気力も体力も温存していても、住みなれた会社組織でのポジションは、段々と狭まって来る。
役職定年まであと5年。
恐らく、出世レースに戻る可能性はなさそうだ。
そんな自覚をし始めた最近、正体不明の胃痛に悩まされ始め、会社のある天神近くのクリニックに通う様になった私。
乾き切った単身赴任の荒れた生活に、身体の方が悲鳴を上げ始めたらしい。
そんなくたびれた中年男を、いつも、優しい笑顔で応対してくれるナース。
右目の泣きぼくろが、松嶋奈々子に、少しだけ似ている。
その彼女と、今、偶然にバーで再会している。
当然ながら、見慣れた白衣ではなく、カジュアルな私服姿が、妙に生々しい。
「---酒を控えろって、再三、先生に言われてるのに、まずいトコロを見られたかな?」
「良いんですよ。先生には内緒にしときますから。」
こんな会話で互いの緊張が解れ、何時の間にか、カウンターで肩が触れ合う距離で飲み始めた私達。
彼女---ナースの絵梨は27歳。
最近まで、国立大学病院に勤務していたらしいのだが、一身上の都合で退職し、今の、私が通う70歳過ぎの院長のクリニックに入ったとの事。
「---何で、あんなに有名な病院を辞めたの?」
「---答えなきゃいけませんか?」
「いや、別に無理しなくても---」
私はマッカランのロック、絵梨はブラディマリーを舐めながら、会話が段々と深くなる。
元々が患者とナースの関係。
絵梨は私の状況を大体知っている。
「---私、そこのドクターと婚約してたんです---」
アルコールの回りが、絵梨を饒舌にする。
こういう時は、黙って頷く方が良い。
「---5年、一緒に暮らしました。彼、3歳上でした---」
訥々と語る絵梨。
「結婚するものだと疑わなかったんです。---でも---」
「でも?」
絵梨の目から一筋の涙。
「彼、マザコンだったんです---。彼のお母さんが大反対して---」
こういう瞬間には、間を置くのが一番。
辞めようとしていた煙草に火をつける。
「彼と別れて、冷静になって、私も気がついたんです。私、ファザコンだったって事を---」
「---だから、今のクリニックに?」
「ハイ---。院長先生は、私の父の友人です。私、父が45歳の時に生まれたんです。」
「ふ~ん。で、少しは傷が癒えた?」
涙を拭って、絵梨が私を直視する。
ドキッとした気持ちを表情に出さない様にするのが必死だ。
「---ハイ---でも、また、傷が増えるかも?」
「なんで?」
絵梨の右手が、私の左手を包む。
「貴方に出会ってしまったから---。」
「----」
「先月、暗い顔で、辛そうにウチのクリニックに来た貴方を見た時、『ああ、この人、とっても寂しいんだ。私が助けてあげたい。』って、唐突に思ったんです。」
「こんな、何処にでもいる様な中年男に?」
「私、中年の男性が、それまで、いろんな場面で戦って来られた遍歴が見えるみたいなんです。学校時代、会社生活、ご家庭---勝ったり、負けたり、悩んだりして来られたから、今の深みが出ているんだなって。だから、貴方に出会って、前の彼氏の人間的な浅さが判って、ようやく、彼を完全に忘れる事ができたの---」
絵梨の口調が、段々、恋人の様に変わって来る---。
その気になる程、若くない私。
だが、天使が、疲れ果てた私に慈愛を施してくれている様な、不思議な気分。
私を見下す役員の顔も、冷めた妻の顔も消えて行く---。
このまま、永遠に朝を迎えなければ良いのに---。