愛玩動物(仮題)
羽田
出国ゲートを越えた私は、刑事二人に深々としたお辞儀をした。
二人が見えなくなるまで見送った。
「ダンッ!」と無感情に押された出国のスタンプの音で、濁流のような戦慄が走っていた空気は堰き止められてピタリと動かなくなった。
呆然としてと突っ立っていた私以外は何もかもか普通に動いているように見えた。
お盆前の羽田空港のロビーは人も少ない。
私の目はモノクロカメラのように光と陰しか認識できず、人々は線形を描いて通り過ぎていった。
日本の技術の粋を極めている事をアピールしているのであろう大きなテレビには、60うん年前に長崎に原爆が投下された。と、首相がスピーチしているのが映っている。
……今日は8月9日で
私はこれから台北でたった3日を過ごすためにここにいて
羽田までは母が送ってくれて
交番に先ず駆け込んで
事実確認されたあとはまるでVIPみたいに私の前後に刑事さんがついてくれて
今はただここに突っ立っているんだ……
やっと状況を噛み砕き始めた私の目の前にはカルティエの免税店の赤と金が眩しくきらめいていた。
鼓動の速さが尋常じゃない。
そこで自分がまるで落ち着いていないことに気がついて、そばの椅子にへたり込んだ。
虚ろに頬杖をついて長崎の原爆追悼式を見るわけでもなく眺めていた。
来年もこの人は首相なのだろうか?……
ようやく意識がこの世に戻ってきたようだ。
私の状況とハイブランドが、なんとも「ミスマッチ」であることにむずむずとした違和感を感じた。
着の身着のままで出てきた私にこれから南国に発つからと、母が貸してくれた葡萄茶色のハワイアンのムームー、つば広帽にサングラス。
何かから這々の体で逃れる者とはとても思えないリゾートな格好。
疲弊しきって魂が抜けたようにぽかんとテレビを眺めている姿はいくらか様子のおかしい人に見えることは自分でも分かっていた。
でも、人目を構う余裕など今の私にはまったくない……
免税店のショッピングを楽しむ余裕もカネもなく、飛行機に乗り込んだところまでのことは、よく思い出せない。
私は陽炎が揺らぐ地面をぼーっとみつめながらまだ自分の状況がつかめないままでいた。
というか、いろいろ考えたくなかった。
すべての思考を停止させて、何も感じたくなかった。
ところが、私の目からは今まで抑圧されてきた涙が堰を切ったように流れ落ち、嗚咽が止まらなくなったのは離陸の瞬間だった。
このすべての悪夢を置いて、私は日本を出るんだ!
なんかよく分からないけどすごく疲れてきた。
私は止まらない涙を赦すことにした。
日本がどんどん地図で観た形になっていく。
ここにとりあえず全部を置いて保留しておこう……。
そして機体は雲の間に入っていった。
ベルトサインが消えた後、窓からはこれからの人生を示唆するかのような真っ青に晴れわたった空しか見えなくなった。
雲は眼下に。どんどん解放されていく。
もう私を追う人はいない。
もう、私はあそこから抜けたんだ……
思わず歓喜の足踏みをしたい衝動を抑えるのに必死になった。
涙は心の汗とはよくいったものだ。
心の汗が収まると、デトックスされたようにスッキリとした。
私の隣にはブロンドで健康的な感じの白人女性が座っている。
この女性も一人旅なのだろうか。
どんな移動なのだろうか。
彼女は軽装で旅慣れた感じがした。
彼女がどうして東京から台北に移動するのかが気になって仕方がなくなった。
自分以外の人に、何かの事情があってほしくもあったし、何もない「普通」を感じたくもあった。
私自身は混乱していてどうしようもないのだが、ただ、久しぶりに人と話がしたいと思った。