記憶の男
それは質(たち)の悪い男だった。折にふれ、死ぬ死ぬといっては女を脅した。しかし、女はまるで意に介さない。近所迷惑とさえいった。だが、決して 『やってみせて』とは口にしなかった。
女の口元にあったのは愛。それを知るのも私だけ。そう感じていても言いはしない。蒼白な肌には合わないのよ、と。
そもそも、情感に長けた女に間の抜けた男が幾ら吠えた処で効きはしないのだ。それでも男は意地になって死ぬ死ぬと言い張り、女を説伏しようとする。叫ぶほどに心に黒く深く沈むものがあることには気付こうともしないまま。それで歯を食いしばって、顔を真っ赤に染めながら死ぬ死ぬを繰り返す。
女には男が何を言っているのか全てお見通しだった。男の姿は蒼白さに赤が混じる色味の鮮烈さとは裏腹にあきれるほど滑稽だった。
いってみれば、『買って買って』と喚き、己の満たされない願望から地団太を踏む幼児と同じく、それは一種の自己顕示欲の表れに外ならなかった。気に病んだ末の絶望がやむを得ずに生んだ愁嘆ではなかった。
しかし、女は不甲斐なく落ちぶれる男を突き放すことをしなかった。しない代わりに言うのだ。
「あんた。どうかすると死ぬ死ぬっていって。そんなことで死んでみたって、あんた浮かばれるような性格してないじゃないの 」
その言葉は男に現実の浅はかさを伝えた。そして戦慄という沈黙を投げつけた。男は口をつぐむ。以来、死ぬという言葉を口にしなくなった。その代わりに女への愛も語らなくなった。女は蒼白さに馴染まぬ自分を知った。
後々、女は釣れない顔で言ったものだ。「あれは猟奇的幼児性よ」