ゆめのきみ
つい先日、僕は一目惚れをした。
相手のことはほとんど知らない。きっと、大学生前後の女性だと思う。
そう言うと、ネットで知り合った相手と思われるかもしれない。しかし、そうではないのだ。
さて、それならどうやってその女性のことを知ったのか?
答えは簡単だ。
時は二週間ほど前までさかのぼる。
その女性に一目惚れをしたその日、僕は電車に揺られ、都内のとある場所へ向かっていた。友達と遊ぶ約束をしたからだ。
ぎゅうぎゅう詰めと言うほどではないが、比較的混んでいる車内。僕は運良く座れたので、スマホをいじって時間をつぶしていた。
僕が降りる駅は終点で、恐らくこれから電車は混んでいく一方だろう。
あと二駅となる駅へ到着した。
ホームでドアを開いた電車の中へ、何人かが先にいた人を押しつぶすようにして乗車してくる。
更に電車の中は狭くなり、座っている自分自身もどこか息苦しさを感じそうだった。普段、あまり混む電車に乗らないような――正しくは、ここまで混むような電車があまりない田舎育ちなのだ。
やっと東京の信じられないような超高層ビル群に慣れた僕だが、この混む電車は未だに駄目だ。
それもあと二駅だけだ、我慢しよう……と心に決め、スマホに目を戻した時だった。
何かが目の端に写った。
いつもなら何となく流してそれきり、と なるのだが、その時はなぜかそれが心の隅に引っかかった。
スマホから目線を上げ、目に付いたその何かを探す。
何となく白かったような気が……。と目線をさまよわせていると、もう一度、何かが見えた気がした。
よく目を凝らす。……見つけた、あれだ。
それは、目の前に立つジーパンの男性の足の向こう側にあった――いや、この場合はいた、の方が正解かもしれない。
ふくらはぎよりも下だけが見えている、すらりと伸びた足。くるぶしまでを包む白いレース状の靴下と、対照的に黒い靴のコントラスト。そして、美しい健康的な肌の色。
それらが僕の心を打ち抜いた。
ついでに言うと、小さいリボンをあしらったデザインのエナメルの靴というところがポイントだ。
「……すっごい好みだ」
と、心の中で言ったつもりだったが、もしかすると、本当に声に出していたかもしれない。
あー、顔くらい見れたらな……。
心の隅でこっそり思った。
この状況で見られるのはものすごく好みな足だけなのだ。せめて顔くらい……と思うことは許してほしい。
しかし、ここは満員電車の中。
目の前に立ちはだかる人の壁をよけ、奥をうかがうことなど不可能だ。
こうなったら、電車を降りる時に見てみよう、と心を決めた。
早く目的の駅に着けと思う間に、彼女への期待は否応なく高まり続ける。
そうするうちに電車は走り、車掌が終点への到着を告げた。
そして、駅のホームに電車が滑り込む。
降りる準備をしている人を目の端に映しつつ、僕は彼女がいるだろう方向に神経を集中させていた。
ドアが開く。
さあ、ここからが勝負だ。
どれだけさり気なく、かつしっかりと彼女を見ることができるか。
頭の中で軽くシミュレーションをしながら立ち上がる。座っていた時よりも視線は高くなるが、まだ周りの人が視界をじゃまする。元々背が高い方ではないのも、その原因の一つだった。
彼女の頭さえ見えないことから察するに、向こうも背は高くないらしい。
……やっぱりかわいい。
と、心はときめくも、ぎゅうぎゅう詰めの車内から人を押し退けつつ出なければいけない状態で、なかなか前に進めない。
更に運の悪いことに、僕が座っていたのはドアが開くのとは逆側だった。そのせいで、どうしても彼女の方が先にホームに出てしまう。
彼女を見失わないように、と必死になりながらどうにか電車を降り――。
恐らくは急いでいたのだろう、スーツを着た男性に突き飛ばされるようにして追い越され、僕は一瞬だけ彼女から気を逸らしてしまった。
たった一瞬。時間的には数秒、いや、一秒もないような時間のはずだ。
しかし、その一瞬が命取りだった。
彼女は、もうどこにもいない。
ホームは電車を降りた人でごった返している。背の高い男性を見つけるならまだしも、足元しか知らない女性を見つけることなどできるわけもなかった。
諦めきれず、女性の足元に注目しながら改札へ向かったが、それらしい人は影もない。
仕方なしにICカードを改札にタッチして集合場所へ急いだ。
「よっ」
「やあ」
先に着いていた友人と合流し、来ていないもう一人を待つ。
その間に、ざわついていた心は落ち着きを取り戻した。
そして同時に、一つの事実にも気づいてしまった。
そう、こうして僕は顔も知らない相手に一目惚れをしてしまったのだ。
変なことかもしれない。
そうは思うが、顔も知らない彼女のことを忘れることができない。
しかし、同時に顔を知らなくて良かったとも思う。
顔を知った彼女は、僕と同じ現実の世界の人間だ。
知らないからこそ、彼女は僕の理想でいてくれるのだと、分かっている。
記憶に鮮烈に残っている、足しか知らない彼女。
もう二度と会えることはないのだろう。
それでも、
「満員電車も、悪くないかもしれない」
今は、そう思える。