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ねじけガマ
ねじけガマ
novelistID. 45515
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花瓶

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 庭に群生する馬肥やしが斜陽の光で茜に照らされる頃、家々の台所では夕食の支度が始まる。午後の傾いた光が窓辺から居間へと差し込むなかで、少女は西日に影を付けて遊んでいた。小さな体で手をバタつかせては、黒い手が同じように伸びたり縮んだりするのを面白がる。まどろむ暖色の光に輝く塵や、そのちらちらとする影も少女には可笑しかった。西日にしては柔らく部屋全体を染める光は、水槽に揺らめき、溢れ出るように長く台所へと延びていた。
 一渉り内職を仕上げた母親が掛け時計に催促されるように立ち上がる。少女は母親が台所に向かうと心得て、その後について歩く。そうして、エプロンを手にする母親の姿に影を重ねるように、少女は居間との敷居から顔を出してその様子を窺うのだった。
 母親はそんな少女にときおり目を移しては、何の気なしに微笑みかけた。少女は一切はにかむばかりだった。それでも、母親の眼差しは愛しさに微笑む。少女の髪を透かす輝きは温かく、いっときの日差しにみる日常の言葉に似ていた。
 母親はエプロンを確かめる。蛇口をひねり手をすすぐと、軽く手拭きを叩き冷蔵庫を開ける。二、三の野菜を取り出してまた閉める。まな板を出し、包丁とともにすすいだ後、すぐ水気を切って手の水も切る。そして、少女にふりむき見しなに微笑んだ。
 母親が台所に立って間もなく、トントントンと軽快で手慣れた音が辺りに響き出す。少女は柱に寄り添うようにして、じっと覗いたまま様子をうかがう。ときおり、つぶらな瞳を好奇心いっぱいに瞬かせるばかりで台所へは入らない。
 母親は台所で作業しているとき、少女が傍にいることを好まなかった。少女は幼いながらもそれを知っていた。母親は少女に『もう少し大きくなってからね』と伝えていた。
 子供ながらの好奇心は、母親の母性に守られながらも、反面日々そのか弱い感受性を刺激して、早くも控え目であることを覚えさせていた。少女の示すはにかみは、母親への好奇心とその愛着、つまり手伝うことへの興味と邪魔をしてはいけないという自覚。それを素直に両立してしまったことで生じた戸惑い、その自己表現に乏しい子供らしい反応だった。母親にはそれがいじらしかった。

 みそ汁や煮魚の香りが台所から居間へと広がり外へと染み出す。炊飯器が炊き上げの時刻を報せる頃、食卓には夕餉の食膳が並んでいた。母親が皿を運ぶたび、少女はその後ろをついて歩いた。皿一枚でも、湯気の立つものを運ばせるには少女はまだ幼すぎた。
 熱いものが駄目でそうでないものはいい。そんなこと言っても幼い好奇心には理解できる訳はない。母親は掛け時計で夫の帰り時刻を確認すると、少女の頭を優しく撫でるのだった。夫の帰る頃には全ての支度を整えていることが妻の心掛けていた密かな習慣だった。
 夫に対する心地のよい忙しさ。そんな日常にいっとき取り込まれ、いつしか少女のことが頭から離れた。少女は居間にはいなかった。母親はまだ気付いていない。
 少女は居間を出てすぐの廊下にいた。そして、玄関から少女の腕で一抱えもする花瓶を抱えてきていた。この花瓶を母親の処へ持ってゆく心算でいた。少女が一歩小さな足を前に出すごとに、花瓶は少女のかわいらしい手の平で小さく踊った。
少女が台所に差し掛かったその時、花瓶は不用意によろめき 、弾みで少女の手を離れてしまった。花瓶は宙に舞いすっと床に落ちた。そして、床の衝撃に耐えられずに鮮鋭な音をたてて割れた。
 食卓で箸を整えていた母親は驚いて駆けてきた。破片の散らばる光景に再び驚き、立ちすくむ少女を見て一瞬息をのむ。しかし、すぐさま何もないことを確認し、少女の強張る体をそっと抱きかかえた。

 改めて割れたものを確認すると、それは母親自身が大切にしていた花瓶と判った。割れた花瓶を手にとった母親は、何か言うかわりに小さく『 あ 』といったきり悲しく顔を花瓶に落とした。母親の姿を目の当たりにした少女は誰言うともなく『 ごめんなさい 』と謝るのだった。
 その瞬間母親はハッとする。母親は少女の無垢な頬にふれ 『 大丈夫よ 』といって微笑んでみせた。
 父親が帰るまでの間、少女はずっと母親に寄り添い、顔を覗き込んでは『 だいじょぶよぉ 』といって母親の頬に手を付けてみせた。母親はそのたびに少女を抱き寄せて、幼気な心に伝えてしまった悲しみを慰めるのだった。
作品名:花瓶 作家名:ねじけガマ