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阿佐まゆこ
阿佐まゆこ
novelistID. 46453
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壊す、壊れる

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あの人の愛用のマシンに熱い紅茶を注いだのは、決して出来心からではない。

 午後九時、私は誰もいない事務所に一人残っていた。今日が最後の出勤の日、そして明日は鍵を返す為に少し顔を出して、それでおしまい。最後の出勤が一人での遅番、そして翌日からあの人が一週間の休みを取ると知ったとき、私はかねてから思い描いていた計画を実行することに決めた。あの人の愛用のマシンは、この会社が設立された十年前からあの人と共にこの会社を支えてきたらしい。十年前、私はまだ中学生だった。なるほどそう考えれば、十年前に既に立派に働いていたあの人と比べれば確かに、私は何の役にも立たないのかもしれないし、何もできないのかもしれない。でも、そうは言っても、誰にでも「最初は」という言葉で許される時期があっても良いと思うのだ。そんな風に考える私は甘いのだろうか。

 この間、近所のコンビニに行った時のことだ。店長らしき中年の女性の隣には、見慣れない男の子が居て、どうやら新しく入ったばかりのようだった。その子がもうめちゃくちゃに遅くて、並んでいる人たちはぴりぴりと苛立っていた。私はそんな彼のことがひとごとのようには思えず、少し胸が痛いのだった。私の前に並んでいた女の人が公共料金の請求書を何枚か持っているのを見て、私は思わず溜息が出た。缶コーヒーひとつとか、ガムひとつとか、それで百円きっちりなら余裕でこなせるくらいのその子は、女の人が数枚の伝票を差し出したときに少し怯えた表情を浮かべていた。そして震える手でお金を受け取って、震える手で伝票をぴりぴり裂いて、スタンプを押して、またしても震える手でお札を数えて渡す。そしてばらばらと小銭を渡し終えるまでを私は見守っていた。
「もうほんとすみません」
店長が女の人に頭を下げていた。
「あら、いいのよ」
女の人は言った。声色が微笑んでいるという感じだった。灰色の髪を一つにくるりとまとめて、バラ色のニットを着て、まさに上品なおばさんという感じの女性。
「誰だって最初はね。私だって勤め始めのころは大変だったわ。」
と彼女は言った。でも、もう少し元気に話せるといいかな、恥ずかしいのかしらね。なんてことを話すと、じゃあ頑張ってね、と言って彼女は去っていった。一部始終その様子を見ていた私は呆然とした。「誰だって最初はね」などという言葉があるということに驚いたのだった。私の居る会社でも、一言でも誰かがそう言ってくれれば何かが違ったのかもしれない。そんな風に思ってしまう私は、やはり甘いのだろうか。

 ぱしりというのが私の会社での名前だった。そのように呼び続けることが既にパワハラだという見解もあるようだけれど、一番下っ端であり世間知らずの私にはどうしようもなかった。私の少し鈍くさい物腰だとか、いまいち垢抜けない外見のせいなのかどうかはわからない。とにかく私は、入社後まもなくから社内いじめの対象になってしまったのだった。もちろん、と言ってはおかしいけれど、セクハラもあった。嫌悪感から体調不良になった。堪り兼ねた私は、年の近い女性社員に相談した。その時彼女は不愉快さを顕にして、あんな礼儀正しい人がそんなことするわけないでしょ、と言っただけであった。人数の極端に少ない職場だったため他に相談できる人はおらず、誰も助けてくれないのだと私は思った。結局そのセクハラ的なものは最後の出勤の日まで続いた。
 退職届けを出したとき、なぜだか社長は嬉しそうに見えた。そして、これだからゆとりは、と小声で呟いた。そして大きな声で、この根性なしがさ、うちの会社にびびって辞めるんだってさ、と言った。誰ひとり、その言葉に反応する者は居なかった。とにかく、下手なことは言わない方がいいのだ。
 それにしても、と私は思った。世の中には実に様々な人が居るというのに、この会社の人たちは、そして社長は案外無防備なのだと。

 あの人のマシンを壊す。それは最初は幻想のようなものであった。もちろんそんなことが本当に出来る訳がなく、弱者の妄想に過ぎないものであった。しかし退職の迫ったある日、自分に割り当てられた予定表を見た時、私は幻想が現実になるありさまを思い描いてしまったのである。だから私は思った。世の中には実に様々な人が居て、様々なことを企んでいるというのに、ここの人たちは何て無防備なのだろうかと。最後の日、私に一人遅番を任せるなんて。もちろん、この大人し過ぎる私が何かやらかせる筈が無いと思っているのだろうけれど。私はなんだかひどく胸が躍った。ときめきを感じたと言ってもいい。しかしそんなことにときめくようになった私も、それなりに嫌な大人になってしまったのだろう。

 午後九時、私は事務所に一人残っていた。ワンルームマンションくらいの広さしかない小さな事務所だったけれど、念の為部屋の隅々まで見て廻った。完全に私一人であると確認する必要があった。そして、誰も居ないという安心を得た私は事務所の流しに置いてある電気ポットの再沸騰ボタンを押した。ポットの側には、あの人専用のお茶の缶があった。レモンやストロベリーのフルーツフレーバーの紅茶だ。私はストロベリーを選んだ。苺の赤は、血の赤でもあるのだ。流し台に付いている小さな引き出しを開け、あの人のマグカップを取り出しお湯を注いだ。甘酸っぱい良い香りが広がった。そして私はその良い香りのお茶を、そのままあの人のマシンに注いだ。上からかけたとか、そういう生易しいことではなくて、きちんと通気口から、内部へと注ぎ込んだのである。

以前、パソコンの中身を見たことがある。筐体を開けると、中には緑色の基盤に迷路みたいな銀色の筋がいくつも流れていて、赤や黄色の線がうねっていて、生き物の身体の中のようだった。今、あの人のマシンの中の銀色の迷路の隅々にまで、赤や黄色の束ねられた線の隙間にまで、熱い紅茶が染み渡っているのだと私は考えた。ぞっとするくらいに胸のすく思いがして、私は鳥肌がたった。

 翌朝、私は何食わぬ顔をして事務所へ行った。鍵を返すときに対応したのは、私が以前セクハラの相談をした女性であった。あの人の椅子は空いていた。今日から海外旅行に行っているのだ。あの人のマシンは、昨日のことなど無かったかのように、いつもと同じようにそこにあった。あの人とあの会社がその後どうなったのか、私は知らない。
作品名:壊す、壊れる 作家名:阿佐まゆこ