月の光
ぼろぼろのスニーカーや、ところどころ擦り切れたビニール製のサンダル、ヒールの先が斜めに擦り減った安っぽいパンプスがひしめきあっている三和土に靴を脱ぎ捨てて部屋に上がると、塩瀬は部屋に入ってすぐ右手にある照明のスイッチを押した。しかし明かりは灯らない。塩瀬は溜息を吐き、手探りで流し台の蛍光灯を点けた。
ぶん、と音を立てて明かりが灯る。流しにはあざみが夕方食べたのであろう、カップラーメンの空容器がそのままにして置いてあった。わずかに残った麺が、スープの中でふやけて浮かんでいる。排水口の目皿にも同じく、ぐずぐずになった麺の残りや葱やら、腐りかけた野菜屑がからまり、何とも嫌な臭いを放っていた。
塩瀬は更に部屋の中へ進むと、照明から垂れ下がっている紐を思い切り引いた。たちまち、ひどく散らかったままの六畳間があらわになった。脱ぎ散らかした下着やストッキングや丸めて置いてある季節外れの洋服、食べかけの菓子の箱、使い切らずに放置してある化粧品の瓶、買ったもののろくに読まない雑誌であったり、またはその付録であったり、目に付くものはすべてあざみの物ばかりであった。
床を埋め尽くしているそれらを踏みつけて塩瀬は歩き、部屋の一番奥の窓際にある一人用のベッドに座った。ベッドの上にはあざみが使っている鏡が置いてあった。あざみはいつもベッドの上で化粧をするのだ。その鏡は指紋でべたついており、蛍光灯の明かりを反射して、脂が白く鈍く光っていた。塩瀬は鏡を放り投げた。そして床をしばらく探ると、自分用の灰皿と近くに落ちている雑誌を拾い上げた。
間も無く。塩瀬は落ち着きのない様子で立ち上がると、再び照明の紐を引いた。すると散らかり放題の部屋は闇に沈み、窓がぼんやりと浮かび上がった。塩瀬はベッドの上に座り、窓を開けた。五月の夜の、心地良い風が入ってきた。ベッドの上に雑誌を置き、その上に灰皿を置くと、ようやく煙草に火を点けた。ふうっと深く煙を吸って、吐いた。彼がこのところ常に感じている、もやもやとした気持ちも吐き出せたら良いのに、と塩瀬は思った。
今日は、と塩瀬は思う。恐ろしく疲れた日だった。何故よりによって絵理子と偶然出くわすことになってしまったのか。まさかあいつは俺を付けていたのか。驚きと動揺と混乱で塩瀬はいささか興奮気味であった。
ひさしぶり、と絵理子は俺に話しかけてきた。突然の事で俺は驚いた。俺から連絡を絶って半年が過ぎていた。あいつに偶然出くわした位ならまだいい。不気味だったのは、あいつが恐ろしく冷静であることと、俺があいつにした事、あざみの事に一切言及しなかったことだ。
明るい夜である。月の光に照らされて、塩瀬の手元からは薄紫の煙がすうっと登っては、低い天井のどこかへ消えていく。
絵理子はくそまじめな女だった。しかし面倒臭い女でもあった。だから俺は絵理子を捨てた。大体捨てたって何だ。面倒になったから連絡を絶った、無視をしたというだけだ。それを女は捨てた捨てられただの騒ぐ。被害者になるのが好きなだけなんだろうが。
しかし、と塩瀬は思う。捨ててやった、と思うのも悪い気がしない。
出会った頃から、あいつはずっと劇作家になると言っていた。それが急に就職すると言い出した。それで俺はあいつに興味を失った。そんな頃あざみに出会った。
あざみは映画を撮っていると言っていた。俺はたちまち彼女に惹かれた。なぜだか知らないがあざみは俺のようになりたいとも言った。俺にとっては最高の賛辞だった。絵理子はどんなときでも俺を褒めたことはなかった。無闇に褒めることは、俺の為にならないとまで言いやがった。
絵理子を捨てて、あざみと付き合うのとほぼ同時に同棲を始めた。その頃が塩瀬にとってはもっとも愉快な日々であった。絵理子とあざみは友人同士だった。一方的に連絡を絶った当時、絵理子からは毎日のようにメールが届いた。最初は連絡が無いことを心配する内容であった。そしてどこかの時点であざみとの関係に気づいてからは、塩瀬の心変わりと裏切りをなじる内容に変わっていった。そして、最後に一度だけ会いたいという内容のメールが届く頃には、塩瀬は既にあざみのアパートに転がり込んでいた。
塩瀬は絵理子からのメールを全て無視し続けた。あざみにメールを見せて、二人で笑いあったこともある。捨てられた女の言葉は、二人の優越感を刺激する恰好の素材であった。
選ばれた二人、という感じ。一緒に暮らし始めた頃は、当然ながら日毎夜毎ただ抱き合って暮らした。それだけで良かった。
しかし近頃塩瀬は、あざみと暮らすことに嫌気が差してきている。現在の生活の荒廃ぶりといったら、この部屋を見れば一目瞭然だ、と塩瀬は思う。そんな頃、偶然絵理子に再会したのであった。
あいつが今日、俺を責めるようなことを言ってくれれば、まだましだった。ところがあいつは何も言わなかった。捨てられた分際で、不気味なくらいに余裕のある態度だった。
塩瀬は絵理子に、あざみと暮らすことに疲れ始めていることや、現在の荒れ果てた生活ぶりを見透かされているように思った。それは塩瀬にとっては許しがたいことであった。
窓からは、心地良い夜風と、月の光が降り注いでいた。塩瀬はぼんやりと煙草をくゆらせた。いつの間にか灰皿には吸殻の山が出来ていた。塩瀬は部屋の中を眺めた。闇に沈んでいたはずの部屋はいつしか青白い光に照らし出されていた。床に散乱するあざみの持ち物、それらは既に塩瀬にとって目をそむけたくなる物であった、の上にも静かな光が降り注いでいる。廃墟に居るようだと塩瀬は思った。
不意に、塩瀬の携帯のアラームが鳴り響いた。午後十一時である。塩瀬は溜息を吐いた。今日は徹夜のシフトが入っている。身体が重く、休みたくて仕方がない。しかし、今日休んでしまうと折半している家賃が払えなくなる。塩瀬は窓を閉め、しぶしぶ立ち上がった。灰皿はそのままベッドの上に置いておいた。
部屋を出るとき、塩瀬は入ってきた時と同じようにダンボールの束に躓いた。塩瀬はそれを、思い切り蹴飛ばした。苛立ちをぶつけるようにして激しくドアを閉め、鍵をかけた。
かんかんかん、と音をたててアパートの鉄製の外階段を降りる。塩瀬は今夜のシフトを乗り切ること、折半分の家賃をあざみに渡すこと、来週の古紙回収日のことを考えていた。空には大きな月が浮かんでいる。
塩瀬はまた、絵理子のことも考えていた。せめて今日あいつが、と塩瀬は思った。泣き言の一つでも言ってくれればよかったのに。
月明かりの道を、塩瀬は急いで歩いた。