東京の叔母
えりこさんの訃報が入ったとき、母は悲鳴をあげた。私は泣いた。ひどい、と言って泣いた。父は、えらいことしてしもたな、と言った。とても難しい顔をしていた。私はひどい、と言って泣きながらその一方で、この事がきっかけで私の上京が禁止になってしまったらどうしようなどと自分勝手なことも考えていた。
えりこさんは、母の妹。つまり、私の叔母。私より十一歳年上だった。一年に多くて二回くらいしか会わなかったけれど、私にとってはお姉さんのような存在だった。
母はえりこさんのことをいつも、「すごく個人主義」と言っていた。だからあの子は結婚できへん、とも言っていた。
私と母は二十一歳離れている。母は短大を卒業した次の年に、高校生の頃から付き合っていた父と結婚した。それは、とても素敵なことなのだと思う。でも私は子どもの頃、母がおそらく悪い意味で使う個人主義という言葉や、それを体現しているらしいえりこさんに憧れを抱いていた。
高校に入ったばかりの頃、地元に帰っていたえりこさんと二人で出かけたことがある。えりこさんは車に乗らないので、電車に乗って地元のデパートに出掛けたのだった。
デパートの最上階にある喫茶店で、えりこさんと向い合って座った。窓際のテーブル席で、海と、海沿いを埋め尽くしている大きな工場地帯がよく見えた。林立する赤白の縞模様の煙突からもくもくと煙があがっていくのを、えりこさんはぼんやりと見つめているようだった。
佐和子さんに聞いたけど、ゆみちゃん東京に行きたいんだってね。一体何を話したものかと困惑して俯いている私に、えりこさんは言った。佐和子さんというのは私の母だ。えりこさんは、地元に戻ってきた時でも標準語で話していた。
うん、東京って、どうなん。と私は尋ねた。この時私は、敬語を使うべきか使わないかで迷っていたのを覚えている。
何もないけど、とえりこさんは話し始めた。
たくさん、隠れる場所があるよ。仕事と住む場所を変えれば、何度も人生をリセットできるの。色々な自分になって生き直すことができるよ。田舎だとやっぱり、そういう訳にはいかないでしょ。隠れる場所がないもの。
でもね、とえりこさんは言うとしばらく黙ってしまった。目線は窓の外をさまよっていた。私も、例の工場地帯の方を見つめていた。あの赤白の煙突を、私はいつか懐かしい思いでながめたりするのだろうかなんて思いながら。
でもね、それが良いことなのかどうかはわからない。ただ、私はそんなふうにしか生きられないみたいだけど。と、そこまで話すとえりこさんは、ああひとつ忘れてた、と笑った。仕事と住む場所と、恋人だ、と言った。とにかく私にとっての東京はそんな感じなの。答えになっていなかったらごめん。
私はそのとき、予期していなかった答えに戸惑っていた。なんだかこう、もっと無難な答えを待っていたのだ。えりこさんとちゃんと話しをしたのはその一度きりだったけれど、その時えりこさんは、家族の誰にも見せなかった一面を私に見せてくれたように思う。
えりこさんが死んだ時、私は思った。ああ、何らかの事情で、えりこさんは人生をうまくリセットできなくなってしまったのだと。それにしても、何故あんな素敵な人が死ななくてはならないのか、とも思った。お葬式の時は、みんな恐ろしいぐらいに泣いた。まだ十分に生きられた命が、その本人によって急に絶たれるということの悲しみを、私はその時、嫌というほどに理解したのだ。
孤独、という感じだった。
えりこさんは、たった一人で暗闇の中に消えてしまった。誰にも何も言わずに。それはとても恐ろしい、悲しいことだった。
その後私は、予定より少し遅れた部屋探しをするために母と上京した。新幹線の中で、私は母に三鷹に住みたいと言った。なんや一体、と母は答えた。えりこが住んどったとこやろ、と。うん、だから、と私は続けた。えりこさんの部屋だったところに住みたい、と。やめて、そんなんあかん、と母は言った。あんたもえりこみたいになるんか、と言って涙ぐんだので、私はそこで話すのを止めたのだった。
あれから十二年経った。私はこの間、えりこさんの年齢を追い越した。結局私は大学卒業後は地元に戻り、実家の近所で再会した同級生と結婚することになった。現在、二人目の子どもを妊娠している。私は結局、えりこさんに憧れながらも、母と同じ生き方をすることになったのだ。そんな今の生活に不満はない。
それでも、と時々考えることがある。私もえりこさんのように、東京で色々な人生を生きていたらどうなっていたのだろうかと。日々の生活に追われ、日常に埋没しそうなとき、私はよくえりこさんのことを思い出す。
二人目の子どもが女の子であるとわかったとき、私はあの、私の憧れの叔母と同じ名前を付けようかとも思った。しかし、結局それはやめておいた。現在孫を可愛がることを生き甲斐にしている母を、悲しませることになるのかもしれないので。