煙草
煙草
私は煙草を吸うためにその大きな病院の屋上へ行った。そこに上質な仕立てのスーツに身を包む初老の先客がいた。その男が自殺しようとしている気配を、私は察知していた。
自殺者は喫煙をしない人間だと、ある高名な医師が云ったのを思い出した私は、ビルの屋上のへりから身投げしようとしているらしい初老の男に向かって云った。
「最後の一服をしてください。長い人生だったでしょうから、煙草を一本吸うだけの時間、自決までの時間を延ばしてもいいでしょう」
私はそう云って煙草を一本、その男に差し出そうとした。だが、迂闊にも自宅に放置してきたことに気付いた。
「失礼、持ってくるのを忘れてしまいました。買って来ますからお待ち頂けますか?」
「煙草なら持っている。しかし、あんたの云う通りだ。あと一本だけ、吸うことにしよう」
初老の男は私に一本取らせたあと、自分と私の煙草にライターで点火し、煙を吐き出しながら顔をしかめた。
「ところで、どうして身投げを?」
「肺がんの末期になっても、煙草をやめられないからだよ」
「おや?あなたは、日本医師会の会長をなさっている鮫山徳次郎先生ではありませんか?」
「そうさ。皮肉にも煙草を吸う人間は自殺をしないと云っていた男が、私だ」
「それでも、自殺なさるのですか?」
「身をもって自説を否定するのはよそう。自殺は取りやめだ」
そのことばを聞くと、私も自殺をやめる気になった。
了