超絶勇者ブレイブマン その1
昨今はヒーロー不在の時代だ。大人たちは口を揃えて嘆いている。――だけど、私は本当にそうなのだろうかと疑問に思う。本当はヒーローが不在なわけじゃなくて、倒すべき悪が不在なんじゃないだろうか。
ヒーローは倒すべき悪がいて、初めてヒーローになれる。でも、今の世の中に倒すべき悪なんているのだろうか。
最近の日本で起きた大事件と言えば、東日本大震災が思い起こされる。確かに政府や東電のやり方に批判が集まったことは記憶に新しい。
だけど、元を正せば全て予期せぬ大災害が原因なのだ。誰も人を不幸にしたかったわけじゃないし、私は彼らだって一生懸命やっていたと思う。今だって、復興に向けて多くの人たちが頑張っているはずだ。
他にも生活保護の不正受給問題やモンスターペアレントと呼ばれる人たち、あるいは環境破壊や少子高齢化社会。いろんな問題が考えられるけれど、誰かを倒すことができれば終わるという問題ではないように思う。間違ったことをしてる人たちは確かにいるかもしれないけど、彼らを倒すべき悪と断じるのは些か早計であるように思う。
視点を海外に向けてみよう。北朝鮮の拉致問題や北方領土問題、それらは歴史が残した負の遺産だ。だけど、それだって多くの人が解決しようと尽力しているのではないか。交渉が上手くいかないことはある。だけど、それだって根気よく話し続けるしかなくて、相手を倒せばいいわけじゃない。
つまり、この世に倒すべき悪なんていないんじゃないか。いるのは、仮想敵、――存在しないはずの悪。仮に悪役を想定することで、心の平穏を保っているだけだ。そして、相手が悪“役”ならば、対峙するのもヒーロー“役”でしかない。もはやごっこ遊びと化しているのだ。
誤解がないように言っておくけれど、悪がいないと言ってるわけじゃない。倒すべき悪がいないと言っているのだ。仮に悪がいたとしても、本当に悪いのは悪を生み出した環境である。生まれた頃からの悪人なんていない。この世の毒素に触れて初めて、悪は悪になるのだ。
悪には悪の動機がある。昔のヒーローものの作品では、多くの場合、そのことが無視されてきた。もちろん、『ウルトラマン』のジャミラや『人造人間キカイダー』のハカイダーなど、昔の作品のキャラでも純粋な悪とは言えない者もいる。
しかし、昨今の作品では悪の動機を描かないものは非常に珍しい。比率で言えば、昨今の作品の方が悪の動機に重きを置いていると言えるだろう。
悪にも悪になった動機があると人々が気付いたことで、悪は死滅し悪役だけが残る現在。それでもなお、ヒーローの存在だけが強く望まれている。倒すべき悪などいないのに、ヒーローは戦いを強いられる。振り上げた拳は、どこに下ろせばいいのだろうか?
――それなら、私が本当の悪になってやる。ヒーローがヒーロー足り得るためには、私のような存在が必要なんだ。だから、私は今日も咆哮する。
「超絶勇者ブレイブマン! ここで会ったが、百年目。今日こそは、この私、――悪の女幹部である地獄のミャーコ(本名:佐藤愛(さとうあい))が貴様をぶっ倒すニャ! にゃはははははは!!」
「また現れたか、地獄のミャーコ! この俺、超絶勇者ブレイブマン(本名:緋色勇気(ひいろゆうき))が受けて立ってやる! どっからでもかかってきやがれ!」
「いい度胸ニャ! しかーし、ここが貴様の墓場となるのニャ! 食らえ、必殺猫パンチ!!」
――これは、本当のヒーローと本当の悪との戦い。そして、愛と勇気の物語。
作品名:超絶勇者ブレイブマン その1 作家名:タチバナ