罪子、困惑する。
槌を打つ、カーンという乾いた音が、境内に響き渡る。
それは、初秋の虫がリリリと鳴く細やかな重奏と、涼風が木々をゆらすざわめきの柔らかな包容を切り裂くように、夜闇を行き、飛散する。
時は丑三つ時であった。石畳の地面の上には、月明かりが薄く鳥居の影をつくっている。雲一つ無い、晴れた夜。数日前から欠け始めた月は徐々に痩せ、今宵は半円に近い形を成している。
赤くそびえる鳥居の上に、罪子はいた。
足を組んで鳥居に腰を降ろし、膝にはA4サイズの書類とファイルを抱えている。
月明かりの下、罪子はおもむろにファイルを開いた。
《平良(へら)凛子(りんこ)》と見出しのつけられたファイルには、これまでに記した数十日分の記録がきっちりとまとめられている。対象を観察し、的確に数値の記録をつけるのが、罪子の仕事だ。
観察対象の《平良凛子》は、罪子が腰掛けている鳥居から少しばかり離れた所、境内にある大きなスギの木の下にいた。
白装束に身を包み、口には櫛を加え、右手には大きな槌が握られている。《平良凛子》の眼前、神社の御神木であるスギの木には、手のひらほど大きさの藁人形が五寸釘によって打ちつけられており、今まさにそこへ槌が打ち下ろされるところであった。
再度、カーンという音が響く。罪子が見守る中、《平良凛子》は息をつく様子すら見せず、続けて重い槌を振りかぶった。
《平良凛子》は、幼少のころから物静かな娘であった。スナックで働く母との二人暮らし、お世辞にも家庭的とは言えない母の下で、《平良凛子》は自身の欲求を押し殺すように、大人しく、従順かつ物静かに育った。
《平良凛子》は、外側から見られるに、ほぼ間違いなく「真面目な子」という評価を受けた。母子家庭に育ち、母親を支えながら二人三脚で暮らす、親想いの孝行娘。それは概ね間違ってはいない評価だっただろう。事実、《平良凛子》は、優しく実直な娘であったと言える。そう、彼女が高校に入学し、思春期を迎えるそのころまでは。
罪子のつけた彼女の行為の記録にも、《平良凛子》が善良な娘であったことは数値として如実に表れている。
仕事終わりの母親の為に、家事を終わらせ料理を作っておく行為、1ポイント。
道に迷った老婦人を、目的地まで案内する行為、2ポイント。
率先して教師の雑務の手伝いをする行為、1ポイント。
他と比較して異常に突出しているわけではないが、《平良凛子》の重ねる善行の比重は、一般のそれより多いと言えた。何千、何万という人間を見てきている罪子は、経験からそう感じていた。
罪子の仕事は、その誕生から終焉まで人間の「生」に密着し、その善行と悪行の回数と数値、表面化した「行為」を記録して、「裁定者」に報告することである。朝から晩まで対象の人間について回り、行動を観察する。60日間に一度、古い暦の数え方で言うところの庚申の日に、天へ報告に出向く以外は四六時中付きっ切りである。
罪子は、いわばその観察・報告を行う大きな機関全体の末端、一つのデバイスのようなものであった。
罪子と同様の存在は、同一時間上においても存命する人間、ホモサピエンスと同じ数だけ存在し、記録、報告の業務にいそしんでいる。
罪子達一人一人の「個」は、業務に支障をきたさないよう極限まで薄められ、「裁定者」ですらその個々の判別は不可能だった。罪子達が持参する観察対象者の名前とナンバーが、同時に罪子達それぞれの判別を示す記号となっていた。
もともと強い「個」を持たない罪子には、大きな精神の動きというものは少ない。故に、生まれた時からずっと見ているからとはいえ、人間に情が移る、といったこともほとんどなかった。しかしながら《平良凛子》の、ある一時期を迎えてからのある種の凋落、堕落の様子にはさすがに驚きを覚え、動揺した。
その兆候が現れ始めたのは、《平良凛子》が高校に進学し、数ヶ月経ったころであった。その真面目で実直な様子から、クラスの満場一致で学級委員に選出された《平良凛子》は、頻繁にクラスの担任に雑務を頼まれては放課後まで居残っていた。
当時の担任の教師は四十を超えた既婚の小太りの男で、その外見や態度から同い年の女子からの評判はすこぶる悪いものだった。《平良凛子》も、彼に対してあまり良い感情は持っていなかったようだが、それは押し付けられる仕事の量があまりにも多いことへの不満に起因するものであり、他の同級生のような、いわゆる「中年男性への嫌悪」からなるものではなかった。父親、という存在を幼少から知ることがなかったが故に、そういった感覚を覚えることがなかったのだろう。罪子はそう予想した。
嫌悪感の不在。それは、中年の男性教師にとって都合の良い勘違いをさせてしまった。そしてその勘違いからなる解釈と、不運な状況の一致こそが、《平良凛子》の人生を大きく狂わせるきっかけとなったのだ。
ある秋の夕べ、《平良凛子》は夕陽の差し込む橙色の教室で、こげ茶色の床に破瓜の血を垂らした。それは、《平良凛子》にとってはあまりに突然に、男性教師にとっては、自分に気を許している、であろうターゲットを虎視眈々とつけ狙った末、極限まで高まった欲動を爆発させた、一方的な性交であった。
必死で逃れようとする《平良凛子》の細い腰を、脂汗が滲んでテラテラと鈍く光る太い腕が捕まえる。制服を乱暴に脱がされ、恐怖に悲鳴をあげようとした口に、教師の太い指が強引に侵入してくる。動揺に震える濡れた舌先は、鉤のように折り曲げられた二本の指にいいように弄ばれ、《平良凛子》は明瞭な言葉も、音も発することができない。教師は、《平良凛子》の背後から、その屈強な左腕を細く白い腰に巻きつけ、右手で口腔内をいじりながら、標的の体を抱いた形で教室の床へと腰を下ろした。
吸気を行う部分を、指の二本分とはいえある程度塞がれていることで、酸素の供給がおぼつかなくなり、《平良凛子》の脳は徐々に酸欠状態へと追い込まれる。苦しさのあまり、口を大きく開いて息を吸おうとするが、それはいつのまにか三本に増えた指と、その愛撫によって阻まれる。
開きっぱなしになった口の端からは、ねっとりとした唾液が垂れ、それが首を伝い、胸を通って下腹部へと流れ落ちる。ぼんやりと白い靄がかかり始めていた《平良凛子》の意識は、次の瞬間、激痛によって強制的に覚醒させられた。
死ぬ。《平良凛子》は直感的にそう思った。下腹部に、何か大きな杭のようなものが刺さっている。それが、私の全身を、今、貫こうとしている。幾度となく打ちつけられるその痛みに、《平良凛子》は悶絶した。
瀕死の思いをしている《平良凛子》を抱いて、教師は満足げにふーっと息を吐き出した。痛みを伴う激しいノックが終わると同時に、下腹部にじんわりと熱が広がる感覚がした。
ポタリ、と水滴が垂れる音がする。ふと下を見れば、磨き上げられた板張りの床に、真紅の小さな円がいくつかできている。白く霞む視界の中で、鮮やかに浮かび上がるその真紅を目にしたとき、《平良凛子》は初めて自分の体に何が起きたかを理解した。
それが、《平良凛子》の初めての性交だった。
それは、初秋の虫がリリリと鳴く細やかな重奏と、涼風が木々をゆらすざわめきの柔らかな包容を切り裂くように、夜闇を行き、飛散する。
時は丑三つ時であった。石畳の地面の上には、月明かりが薄く鳥居の影をつくっている。雲一つ無い、晴れた夜。数日前から欠け始めた月は徐々に痩せ、今宵は半円に近い形を成している。
赤くそびえる鳥居の上に、罪子はいた。
足を組んで鳥居に腰を降ろし、膝にはA4サイズの書類とファイルを抱えている。
月明かりの下、罪子はおもむろにファイルを開いた。
《平良(へら)凛子(りんこ)》と見出しのつけられたファイルには、これまでに記した数十日分の記録がきっちりとまとめられている。対象を観察し、的確に数値の記録をつけるのが、罪子の仕事だ。
観察対象の《平良凛子》は、罪子が腰掛けている鳥居から少しばかり離れた所、境内にある大きなスギの木の下にいた。
白装束に身を包み、口には櫛を加え、右手には大きな槌が握られている。《平良凛子》の眼前、神社の御神木であるスギの木には、手のひらほど大きさの藁人形が五寸釘によって打ちつけられており、今まさにそこへ槌が打ち下ろされるところであった。
再度、カーンという音が響く。罪子が見守る中、《平良凛子》は息をつく様子すら見せず、続けて重い槌を振りかぶった。
《平良凛子》は、幼少のころから物静かな娘であった。スナックで働く母との二人暮らし、お世辞にも家庭的とは言えない母の下で、《平良凛子》は自身の欲求を押し殺すように、大人しく、従順かつ物静かに育った。
《平良凛子》は、外側から見られるに、ほぼ間違いなく「真面目な子」という評価を受けた。母子家庭に育ち、母親を支えながら二人三脚で暮らす、親想いの孝行娘。それは概ね間違ってはいない評価だっただろう。事実、《平良凛子》は、優しく実直な娘であったと言える。そう、彼女が高校に入学し、思春期を迎えるそのころまでは。
罪子のつけた彼女の行為の記録にも、《平良凛子》が善良な娘であったことは数値として如実に表れている。
仕事終わりの母親の為に、家事を終わらせ料理を作っておく行為、1ポイント。
道に迷った老婦人を、目的地まで案内する行為、2ポイント。
率先して教師の雑務の手伝いをする行為、1ポイント。
他と比較して異常に突出しているわけではないが、《平良凛子》の重ねる善行の比重は、一般のそれより多いと言えた。何千、何万という人間を見てきている罪子は、経験からそう感じていた。
罪子の仕事は、その誕生から終焉まで人間の「生」に密着し、その善行と悪行の回数と数値、表面化した「行為」を記録して、「裁定者」に報告することである。朝から晩まで対象の人間について回り、行動を観察する。60日間に一度、古い暦の数え方で言うところの庚申の日に、天へ報告に出向く以外は四六時中付きっ切りである。
罪子は、いわばその観察・報告を行う大きな機関全体の末端、一つのデバイスのようなものであった。
罪子と同様の存在は、同一時間上においても存命する人間、ホモサピエンスと同じ数だけ存在し、記録、報告の業務にいそしんでいる。
罪子達一人一人の「個」は、業務に支障をきたさないよう極限まで薄められ、「裁定者」ですらその個々の判別は不可能だった。罪子達が持参する観察対象者の名前とナンバーが、同時に罪子達それぞれの判別を示す記号となっていた。
もともと強い「個」を持たない罪子には、大きな精神の動きというものは少ない。故に、生まれた時からずっと見ているからとはいえ、人間に情が移る、といったこともほとんどなかった。しかしながら《平良凛子》の、ある一時期を迎えてからのある種の凋落、堕落の様子にはさすがに驚きを覚え、動揺した。
その兆候が現れ始めたのは、《平良凛子》が高校に進学し、数ヶ月経ったころであった。その真面目で実直な様子から、クラスの満場一致で学級委員に選出された《平良凛子》は、頻繁にクラスの担任に雑務を頼まれては放課後まで居残っていた。
当時の担任の教師は四十を超えた既婚の小太りの男で、その外見や態度から同い年の女子からの評判はすこぶる悪いものだった。《平良凛子》も、彼に対してあまり良い感情は持っていなかったようだが、それは押し付けられる仕事の量があまりにも多いことへの不満に起因するものであり、他の同級生のような、いわゆる「中年男性への嫌悪」からなるものではなかった。父親、という存在を幼少から知ることがなかったが故に、そういった感覚を覚えることがなかったのだろう。罪子はそう予想した。
嫌悪感の不在。それは、中年の男性教師にとって都合の良い勘違いをさせてしまった。そしてその勘違いからなる解釈と、不運な状況の一致こそが、《平良凛子》の人生を大きく狂わせるきっかけとなったのだ。
ある秋の夕べ、《平良凛子》は夕陽の差し込む橙色の教室で、こげ茶色の床に破瓜の血を垂らした。それは、《平良凛子》にとってはあまりに突然に、男性教師にとっては、自分に気を許している、であろうターゲットを虎視眈々とつけ狙った末、極限まで高まった欲動を爆発させた、一方的な性交であった。
必死で逃れようとする《平良凛子》の細い腰を、脂汗が滲んでテラテラと鈍く光る太い腕が捕まえる。制服を乱暴に脱がされ、恐怖に悲鳴をあげようとした口に、教師の太い指が強引に侵入してくる。動揺に震える濡れた舌先は、鉤のように折り曲げられた二本の指にいいように弄ばれ、《平良凛子》は明瞭な言葉も、音も発することができない。教師は、《平良凛子》の背後から、その屈強な左腕を細く白い腰に巻きつけ、右手で口腔内をいじりながら、標的の体を抱いた形で教室の床へと腰を下ろした。
吸気を行う部分を、指の二本分とはいえある程度塞がれていることで、酸素の供給がおぼつかなくなり、《平良凛子》の脳は徐々に酸欠状態へと追い込まれる。苦しさのあまり、口を大きく開いて息を吸おうとするが、それはいつのまにか三本に増えた指と、その愛撫によって阻まれる。
開きっぱなしになった口の端からは、ねっとりとした唾液が垂れ、それが首を伝い、胸を通って下腹部へと流れ落ちる。ぼんやりと白い靄がかかり始めていた《平良凛子》の意識は、次の瞬間、激痛によって強制的に覚醒させられた。
死ぬ。《平良凛子》は直感的にそう思った。下腹部に、何か大きな杭のようなものが刺さっている。それが、私の全身を、今、貫こうとしている。幾度となく打ちつけられるその痛みに、《平良凛子》は悶絶した。
瀕死の思いをしている《平良凛子》を抱いて、教師は満足げにふーっと息を吐き出した。痛みを伴う激しいノックが終わると同時に、下腹部にじんわりと熱が広がる感覚がした。
ポタリ、と水滴が垂れる音がする。ふと下を見れば、磨き上げられた板張りの床に、真紅の小さな円がいくつかできている。白く霞む視界の中で、鮮やかに浮かび上がるその真紅を目にしたとき、《平良凛子》は初めて自分の体に何が起きたかを理解した。
それが、《平良凛子》の初めての性交だった。