何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】
あの日の彼の服は極上の絹で仕立てられていた。あの身なりが中級両班のものとは少し妙な気もするが、家門の高低に拘わらず、金を持っている両班がいないわけではない。勤務する部署や役職によっては、表向きには禁止されている賄賂が入ってくる。
半ば疑い半ば予想していたとおりの応えに、明姫は安心したように笑った。
「やっと笑ったな。明姫はそうやって明るく笑う顔がいちばんだ。泣き顔もなかなかそそられるけど」
「何よ、それ」
明姫はまた笑う。
ユンも笑顔になった。
「つまり、笑顔も泣き顔も魅力的だってこと」
「ユンはやっぱり、女の人を口説くのが上手ね」
ユンが傷ついたような表情になる。
「また、そんなことを言う。私は息をつくように嘘はつけない男だと何度言ったら、信じてくれるんだ」
「だって、ユンを見てると、信じられないんだから、仕方ないでしょ」
そこで、明姫は漸く今の状況に思い至った。自分が今、この瞬間、ユンの逞しい腕に閉じ込められていること、互いの呼吸さえ聞こえるほど間近にいること。
「ご、ごめんなさい」
慌てて身体を引き離そうとすると、彼女の背に回ったユンの手に力がこもった。
「離して」
「離さない」
ユンはいっそう強く明姫を抱きしめた。
「ユン!」
抗議するように呼ぶと、ユンが嘆息する。
「先刻、明姫の方から私の腕に飛び込んできてくれたときは、物凄く嬉しかったんだけどな。やっと両想いになれたんだと思って、歓んだのに」
「り、両想い?」
思わず声が上擦った。
「明姫は私に逢いたくなかった? 私はずっと、そなたの顔を見られない間、逢いたいと思っていたよ。考えるのは、そなたのことばかりだった」
あまりにも直截な科白に、明姫の方が赤面してしまう。
「ユン、それって」
明姫がおずおずと顔を上げると、愕くほど真剣な彼の顔があった。その熱を帯びた瞳を受け止められなくて、明姫は思わずうつむく。
「眼を逸らさないで。私を見てくれ」
お願いだから。懇願するように言われ、明姫はまた彼を見上げる。
「そう言えば、まだ私の気持ちを伝えてなかったから、この際、きちんと話しておきたい。私は明姫が好きだ」
「ユン、待って。私は」
ユンの黒い瞳が不安げに揺れる。
「明姫は私を嫌いなのか?」
明姫は烈しく首を振った。
「違うわ。大す―」
言いかけて、うなだれた。
「なに? よく聞こえなかった。もう一度、大きな声で言って」
期待に瞳を輝かせるユンは本当に嬉しそうだ。明姫を好きだと言ってくれる言葉に嘘はないのかもしれなかった。確かに色々な顔を持つ男だし、底の知れない部分もある。
見かけは両班のお坊ちゃん然として、どこまでものんびりとしているのに、時々見せる隙のなさや、端正な面をよぎる翳りのようなもの。見かけの泰然とした彼はほんの見せかけにすぎず、その奥底にはもっと別の顔が隠れているようにも思えてならない。
それでも、明姫は彼を好きだ。たとえ彼の本性がただの道楽者の女タラシでも、気持ちは変わらないかもしれない―それほどまでに惹かれている。
が、中級官吏とはいえ、ユンはれきとした両班の子息だし、官職にもついている。一方の明姫は後宮に仕える女官なのだ。女官は国王の所有という認識があるため、生涯、他の男と婚姻どころか恋愛も許されない。
ユンはどうやら飄々としている割に、傷つきやすい脆い面がありそうだ。明姫はどうやって説明すれば、彼を傷つけず納得させられるか考えた。
「ユン、あなたの気持ちはとても嬉しい。私」
言いかけたところ、烈しい語気で遮られた。
「礼なんて要らない。惚れた女に告白して、礼を言われるほど間の抜けたことはないから」
「私は何も別にそんなつもりで」
あまりの剣幕に、明姫は気圧されたように黙り込んだ。何だか、いつもの彼とは違うようで、少し怖い。
「ね。お願いだから、離して」
縋るように見つめると、ユンが視線を逸らした。
「そんな眼で見ないでくれ。私だって、男だ。そんな風に見つめられたら、明姫をこのままここで奪ってしまいたくなる。滅茶苦茶になるほど壊してしまいたい、抱きたいと思ってしまう」
しかし、男女の間についてのことは何も知らない明姫には、彼の言葉の意味は理解できなかった。
「ユン?」
ユンが漸く自由にしてくれたので、明姫は急いで彼から少し距離を置いた。
「今日のユンは少し変。いつものあなたと違うみたいで、怖いの」
ユンがひっそりと笑った。
「大丈夫だ。別に明姫を怯えさせるつもりはないし、無理強いするつもりもない。今、ここで無理にそなたを抱くことはできないわけじゃない。でも、そんなことをすれば、明姫はきっと私を嫌いになる。私はそなたの心を永遠に手に入れることはできなくなるだろう。だから、怖がらなくて良い」
ユンの顔に屈託ない微笑が浮かぶ。
「ごめん。本当に怖がらせるつもりなんかなかったんだ」
その穏やかな話し方は、もう、いつものユンだ。明姫は心から安堵した。
「ううん、私の方こそ、怖いだなんて失礼だったかもしれない。ごめんなさい」
素直に謝り、明姫は先刻の話に戻った。
「ユン、私もあなたを好きよ」
刹那、ユンの顔が嬉しげにほころぶ。
「本当なのか?」
こくりと、明姫は頷いて見せた。
「まだ、お互いに知っているのは名前だけで、殆ど何も知らないような状態で?好き?っていうのも変なのかもしれないけど」
「そんなことはないだろう。誰かを好きになるのに、時間は関係ないのではないか。ひとめ惚れという言葉もある」
まったくユンという男は、こちらを赤面させるような科白を平然と口にできるらしい。
これが意図しての女を口説く手練手管なのか、気恥ずかしさを知らない天然のタラシなのかは判らなかったが。
明姫の白い頬に朱が散った。
「互いに好きだというのなら、何の問題もないな」
勢い込んで言うユンに、明姫は吐息混じりに言った。
「私は後宮の女官なのよ、ユン」
「それがどうかしたのか?」
「女官の恋愛は禁止されているわ。私たち後宮に仕える女官は一応、国王殿下のものということになっているんだもの。殿下の臣下であるあなたと私は恋愛はできないの」
大好きなユンに告げるのは辛かったけれど、ここで彼の勢いに流されて安易に想いを受け入れることはできない。こうやって真夜中に二人だけで密会しているのを見つかっただけで、罪に問われかねないのだ。
それは自分のためというよりは、将来あるユンのためであった。集賢殿の官吏というからには、ユンは学者なのだ。いずれ、この国を担う未来ある学者の卵をたかだか恋愛沙汰で潰すわけにはゆかない。
ユンには自分との恋愛などよりも他に、なすべき大切なことがある。立派な学者となり、その学識を朝鮮の発展のために役立てて欲しい。それがユンを心から愛する明姫の願いだ。
「ならば、明姫は私の想いは受け容れられないと?」
ユンの声が一段低くなった。
ふいに涙が溢れそうになり、明姫はうつむいた。
「私はユンに立派な学者になって欲しい」
「明姫は国王に遠慮して、身を退くのか? 顔も見たことのない男に操を立てて一生涯、誰にも嫁がず、宮殿で生涯を終えるというんだな」
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】 作家名:東 めぐみ