何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】
明姫は背後のユンを気にしながら、何度か振り返ったけれど、ユンの姿は見えなかった。物陰からひそかに見ているのか、既に帰ってしまったのかは判らなかった。
別に門兵に姿を見られても構わないのにと思うのだが、彼の用心ぶりは度を超しているようにも思えた。
「本当についてないわね、このところ」
明姫は独りごち、溜息をつく。
ついてないのはユンに出逢ってからだと思いたいところだが、その実、溜息の原因は当のその男に逢えないからだとは死んでも認めたくない明姫であった。
今、ユンは何をしているのだろうか。また、ソル老人の見舞いに訪れている? 側にはマルや美貌の未亡人ソギョンもいて?
ユンが美しい微笑みをソギョンに向けているところを想像しただけで、胸がキュッと振り絞られるように痛む。
ああ、私ってば、一体何を考えているのかしら。明姫はまたしても大きな吐息を吐き出し、痛む脚を庇うようにして歩く。
宮殿は広大で、国王の住まう大殿を初め、幾つもの殿舎が並び立っている。今、明姫は殿舎と殿舎を繋ぐ石畳の通路を歩いていた。極彩色の建物が春の陽射しに眩しく輝いている。
明姫はまた立ち止まり、脹ら脛をさすった。そっとチマの裾をめくると、痛々しく腫れ上がった脹ら脛が現れた。数日前、約束を破り門限を守れなかった罰として、崔尚宮に鞭でしこたま打たれた跡である。
―どうして、そなたは約束が守れぬのだ。私がどれほど心配したか、判っているのだろうな。
崔尚宮にしてみれば、明姫が一向に帰ってこないので、災難に巻き込まれたのかと心配したらしい。表沙汰にはしていないが、実の伯母と姪だけに、やはり案じてくれたのだろう。
その心配が高じて大きな怒りとなり、その日の鞭打ちはいつもよりも力が入っていたような気がする。伯母の心配は嬉しいが、鞭でぶたれるのは嫌だ。
この傷が治るには、かなりの時間がかかりそうだ。明姫は今日、幾度めになるか知れぬ溜息をつき、また歩き始める。そのときだった。
ふいに背後から大きな手で口許を塞がれ、明姫は身を強ばらせた。
なに? どうしたの?
極度の混乱状態に陥り、渾身の力を出して抗う。王宮は格段に広いのだ。賊の一人が例えば下働きになりすまして入り込んだところで、見抜けられるものではなかった。
だが、領議政のように時の権力者というのならともかく、一介の下っ端女官を殺害したところで得をする者がいるとは思えない。国王の妃というのならまだ判るが―。
それとも、生命が狙いではなく、別のものが目的だとか? しかしながら、後宮の女官を陵辱したりしようものなら、その者は断罪に処せられるのが通例である。女官は国王の所有物だから、国王の女に手を付けたと見なされるのだ。
明姫が予想外に抵抗したため、不埒者も慌てたようだ。後ろから羽交い締めにされた手に更に力がこもった。
「おい、落ち着け。頼むから、暴れるな」
賊の声が耳許で囁く。なおも全力で抵抗する明姫の耳に潜めた声が飛び込んできた。
「明姫、私だ」
この聞き憶えのある声は。
明姫はハッとして抵抗を止めた。
「あなた―」
思ったとおり、眼前にあるのはユンの整った顔である。
「何で、こんな馬鹿げたことを―」
言いかけた明姫に向かって、?シッ?と自らの唇に人差し指を当ててみせる。
「今夜、二人きりで逢おう」
「なっ―」
あまりの展開に言葉も出ない。
「後宮の一角に、桜草が群れ咲いている場所がある。今は使われなくなって久しい殿舎の庭園だ。その殿舎で待っていてくれ」
言うだけ言うと、ユンは何食わぬ顔で明姫から離れた。後は振り向きもせずに通路を足早に歩き去っていく。今日も、蒼の官服を纏っていたから、仕事の途中なのだろうか。
まったく、何の部署にいるかは知らないが、昼日中から逢い引きをしようと迫ってくるとは、見かけによらず大胆な男だ。
だが、明姫は心が弾むのを抑えられなかった。ユンとまた逢える。しかも、二人きりで。
夜であれば、時間をさほど気にする必要もない。明姫は後宮生活も長く、いっぱしの女官として認められているから、一人部屋を与えられている。相部屋であれば、人眼や時間を気にする必要があるけれど、一人なら、ある程度の自由がきく。
極端な話、夜明けまでに自室に戻れば良いのだ。もっとも、幾ら何でも、そこまでユンと一緒に過ごすつもりはないが。
その日は夜になるのが待ち遠しくてならなかった。我ながら、現金なものだ。
一日の勤めを終え、やっと自分の居室に戻れた。明姫は更に時間が過ぎるのを待った。ユンは刻限の指定まではしなかったが、常識的に考えて宵の口ではないはずだ。夜更けでなければ、誰かに二人で逢っているところを見つけられる可能性があるからだ。
なので、かなり夜が更けるのを待ってから、明姫はそっと部屋を抜け出した。足音を忍ばせ、廊下をひた歩く。万が一のときを考えて、着ているのは女官のお仕着せだが、編んだ髪にはユンが買ってくれた灰簾石(タンザナイト)の簪を挿し、チョゴリの紐にはお揃いのノリゲを付けていた。
既に部屋を出る前、鏡を覗き込んで何度も確認済みなので、おかしいところはないはずだ。女官は中殿と呼ばれる王妃や側室より目立ってはいけない。だから、普段は地味な装いを義務づけられている。間違っても華美な装飾品で身を飾ることは許されない。
しかしながら、人眼のない真夜中まで、それをとがめ立てられはしない。せめて好きな男に逢うのだから、これくらいのオシャレはしておきたい。
好きな男に逢いにゆく。その事実に明姫は今更ながらに心躍らせていた。心臓は嫌が上にも鼓動を速めている。
「桜草が群れ咲いている殿舎、かなり遠いのね」
明姫はユンが待ち合わせ場所に指定した殿舎の前に立ち、周囲を落ち着きなく見回した。ここは後宮の外れに位置する。また住む人もおらぬ今は、昼間でも滅多に近くを通る人はいなかった。
更に、この殿舎にはいわくがある。先代の王の側妃の一人がここに暮らしていたのだが、自ら自害したと伝えられているのだ。
その妃は国王の寵愛も厚かったが、低い家門の出身で後ろ盾となる後見人もいなかった。力のある後見がいないというのは、後宮の妃たちの勢力図にそのまま影響する。つまり、錚々たる後ろ盾のある妃たちの間で、肩身の狭い想いをするということだ。
自害して果てた当時、妃は身籠もっていた王の御子を流産した直後であったことから、死を選んだ動機はそれゆえだろうと憶測された。ただ、その頃、妃の許に幼い世子が頻繁に出入りしていたという。まだ七歳ほどの幼い少年であった世子は生母である王妃よりも、この寡黙で儚げな妃を母のように慕っていた。
そのため、王妃が
―あの妃は我が幼き王子を誑かしている。世子を手なずけて味方にしようとしているのだ。
とノイローゼ状態になったことあるほどだったとか。
もちろん、成人した王子ならばともかく、わずか七歳の幼子が妃の許に出入りしたからといって、国王もそれを咎めだてするはずもかった。
が、王妃の妃に対する風当たりは次第に強くなり、ついに妃が王の何人目かの御子を懐妊したと判るに至って、妃を呼びつけて鞭打つという事態にまで発展した。
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】 作家名:東 めぐみ