言の寺
キミの透明な部分をボクは愛スル
両の翅の無いアゲハ蝶がいました
彼女は変態したときから
翅を持っていませんでした
「芋虫のようでした」
蝶の蝶たる所以(ゆえん)
その美しさの裏付けたるべきあの大振りの翅
それを持たない蝶は
「まだ芋虫であるから……」
という言い訳もできない
ウゴウゴとした大きな何かでした
そんな蝶を見て
蛾の大群が嘲笑います
「見てみなさいよアレを!なんとまぁ不気味な生き物だろうか!」
「生き物……生きているの?アレは?」
「ええ、だって気門が脈動しているわ」
「まぁ本当、でもあれじゃあ生きていないのと同じね」
「そうね。きっとそうね」
「だってあんな姿じゃあ。アバンチュールなんてできるはず無いもの」
「同意。断言できるわ」
「さぁ、もう行きましょう。そして生きましょう。私たちの生を、そして性を」
「そうね。そうしましょう」
そう言って蛾は
大量の鱗粉をわざとアゲハ蝶の体に振りまけて
ザザと花畑へ飛んで行きました
「私は、生まれてこないほうが良かったのかしら」
蝶は悲しげに言いました
とってもとっても悲しいです
蝶は体をくねらせて
山椒の幹を何とかよじ登りました
そしててっぺんに着くと
翅があるべきはずの箇所の
その付け根の筋肉に力を込めて
独り言ちます
「空があんなにも遠い……」
蛾の飛んでいった方を眺める複眼
幾つもの空を複製して映している
「ここから落ちたら死ぬるだろうか?」
蝶は楽になりたいと思いました
生きることが苦しみと同義ならば
死はきっと安楽なる岸辺に違いない……
と彼女は確信していました
「飛ぼう」
翅の無い蝶にとって
それは死を意味します
それでも彼女の決意は固くって
その意を受けた6つの足は
蝶の図体をよじよじと
山椒の葉の淵に運びいて
灼熱アッツイアスファルトを見下ろす地点
絶望に一番近い地点に
蝶を立たせました
「アスファルトまでの滞空時間を……私は生きよう」
それが彼女にとっての「生」でした
つまりこうです
命を爆発させるための飛翔
どうせ命は儚いのだし
蝶を思いとどまらせるものは
一切存在しませんでした
「このセカイに……『優しい』はないのね」
山椒の葉が大きくしなり
蝶が転落しようとしたそのとき
「何をしているんだい?」
上空から力強い声が聞こえました
それは
完璧なまでに美しい翅を備えた
一匹の雄のアゲハ蝶でした
「ここから飛びおるのワタシ」
翅の無いアゲハ蝶は
乾いた声で言いました
「そんなことは止めておきなよ」
雄のアゲハが言いました
「それでもワタシは苦しい。苦しくって仕方がない……一瞬の激突だけが、ワタシの唯一の救いなの」
翅のないアゲハは身を捩らせて泣きました
それはとても悲しげな涙でした
水色でした
「待ちなよキミ……僕には見えるよ……キミの透明な翅が」
「……透明な……翅?」
「ああ、透明な翅さ。それはとても美しい翅。美しさが極まって、誰にも見ることができない翅」
「……でもアナタには見えるの?」
「ああ」
「どうして?」
「……多分、キミに恋してしまったから」
「恋?」
翅の無いアゲハは訝しげに雄を眺めます
――ワタシを誂っているのではないだろうか?
でも雄の複眼は
一つの誠実な光を宿して
太陽を反射させていました
「僕といっしょに……お願いだ。僕といっしょに……」
雄の蝶は本気の様子でした
「ワタシでいいの?」
「キミじゃなければ嫌だ」
「どうして?」
「キミの美しさが完璧だから……キミの存在しない翅は、どんな実物よりも、はるかに美しい」
翅の無いアゲハの絶望は
あっけなくくじかれてしまいました
「ワタシは、アナタを愛します」
「そう言ってくれて、ボクはとても嬉しいよ」
二人は結ばれました
そうして山椒の葉に包まれて
いつまでもいつまでも
楽しく暮らしましたとさ
あ
後ね
子供が産まれましたよ
とても可愛い子供です
*****
「ねぇ。ママ、そのお話は本当のことなの?」
車椅子の女性は
蝶のように優しげな目で
娘を見つめて言いました
「本当のお話よ」