悪魔の天秤
橋の真ん中に、天秤を手にした悪魔が佇んでいました。
悪魔は魂を手に入れようと、この橋を通る人間を待ち伏せていたのです。
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まずは僧侶がやってきました。
悪魔はすかさず声をかけました。
「この橋は私がかけた橋だ。通りたくば通行料を払ってくれ。」
そして、その手に持った天秤をみせつけました。
「天秤のかたっぽの皿に置いたのはこの川の底から拾い上げた石だ。これより重いモノをもらおう」
「わたしは修行中の身です。何も持っていません。」
「ならばそなたの耳で良かろう」
千切った耳を天秤にかけると、くらりと天秤の腕が傾きました。
「よし、通るがよい」
悪魔が道をあけたその時、悩める乞食がやってきて僧侶にすがりました。しかし、その声は僧侶に届かず、彼はさっさと行ってしまいました。
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つぎに画家がやってきました。
悪魔は耳の載った天秤を示し、
「これより重いモノを差し出せば橋を通してやる」
と言いました。
画家はその目をくり抜いて、天秤にかけました。
「上々であろう」
結果に満足すると悪魔は画家を通してやりました。
画家はカンバスと絵筆を放り出して、手で地をまさぐりながら這いずって行きました。
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今度は乙女がやってきました。
悪魔が天秤をかかげると、皿の上で眼球がころころと遊びました。
「そなたの鼻なら、この目玉よりも重いであろうよ」
乙女は鼻をそぎ落としました。
己の鼻を皿に載せ、乙女は悪魔のわきをそそくさと通り抜けました。
その時茂みの陰には乙女によく似合いそうな可憐な花が、芳しい香気を放っていましたが彼女は気づかずに行ってしまいました。
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やがて歌い手がやってきました。
歌い手は随分思案したのち、己の喉笛を切り裂いて天秤に落としました。
「では、通ることを許そう」
歌い手は体のうちより湧き上がる情熱を吐き出す術もなく、まんじりとうつむき過ぎ去って行きました。
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さらに戦士がやってきました。
悪魔が代償を要求すると、分厚い胸板を威張りながら心臓を掴み出し、悪魔に渡しました。
「戦場はすぐそこだ。地獄で再びまみえようぞ」
戦士は精気のないデクに成り下がり、悪魔の指し示した方へよたよたとおぼつかない足取りで進んでいきました。
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のちに錬金術師がやってきました。
錬金術師は皿に載った心臓をしげしげと検分したのち、頭蓋をかち割り脳ミソをひきずり出しました。
「とうとうここまできたぞ。いよいよ次こそ意中のモノが手に入るであろう」
ついに魂を奪い去る算段が整いました。
気づけば錬金術師の眉間に鋭く刻まれていたシワはたちまちとろけ、ぼんやりと呆けた形貌で森の奥へと消えていきました。
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天秤の皿から溢れた血が滴り、川の水はすっかり真っ赤に濁ってしまいました。
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最後にやってきたのは旅人でした。
「旅人よ。ここを通りたくばこの脳ミソよりも重いものを寄越すのだ」
旅人は困ってしまいました。
なぜなら、心臓よりも重いものというと、旅人は魂くらいしか持ち合わせていなかったのです。
悪魔は、
「そうだ!これを凌駕するにはそなたの魂以外ありえん!」
と、悪魔の名にふさわしい程のむごたらしき笑みを浮かべながら、旅人に迫りました。
旅人は悪魔にしばしの猶予を求めました。
「悪魔よ、しばらく考えさせてくれ。やがて人は必ず死に屈服する。ならば急ぐこともなかろうよ」
「気が済むまで思案するがよい。なんにせよ、魂より他に差し出す物などないのは変わらんがな」
悪魔はすでに魂を手に入れたも同然でした。
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それから旅人は幾昼夜も考えを巡らせていました。
悪魔はそれをじっと待っていました。
天秤は未だ空の皿を掲げ続けたままです。
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金星の瞬きが薄れ、雄鶏が二度鳴いたのち、旅人は立ち上がり川辺へと駆け下りてゆきました。
そしてゆるやかな川の流れの端に沈んでいた、滑らかに輝く小石を掬いとり、
おもむろにその小石を悪魔の天秤へ置きました。
かたり、と音をたて天秤の頂は入れ替わりました。
天秤の脳ミソは、小石ひとつにかなわなかったのです。
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時が経つうちに脳ミソは腐り、乾涸び、朽ちて、崩れ、今では取るに足らない塵芥と化してしまっていました。
「重さ」など、一陣の風にたちまち掠め取られ、皿の上には脳ミソの影も形もありませんでした。
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約束通り、天秤を沈めてみせた旅人は橋を渡って行きました。
橋を渡りきる前に振り返り、彼は悪魔に語りかけました。
「もっとも、最初から行き先などない気まぐれの流浪旅、あえてこの橋を渡る必要もこれといって無かったのだがね。それでも前へ進みたがる、自分でも呆れるほどのこの足取りの軽さは、旅人の性というものよ」
旅人の笑みは、悪魔のそれよりも悪辣なものでした。
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橋の真ん中でぽつねんと、悪魔は泣きました。
零れた涙が川にぴちょんと落ちましたが、それは流れに混ざってすぐにわからなくなりました。
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美しく透きとおった川面に、昇り始めた朝日が煌めいていました。