吾輩の愛すべき探偵
吾輩が昼寝をしている間に、すっかり夕方になってしまっていたらしい。
庭は吾輩が最後に見たときと同じ格好で机に向かっているが、空彦の姿はない。もう帰ったのだろう。ということは、既に夕方の五時を過ぎているわけだ。
「ああ、ねこちん、起きたね」
庭が、サバの缶詰を手に、吾輩の傍へやって来た。
「五時十五分、君の夕食タイムだ」
にゃおん
吾輩は喜びを鳴き声に込めて、庭が皿に移してくれたサバの缶詰を夢中で平らげた。庭はいつも朝の七時十五分と夕方の五時十五分に、たっぷりのサバの缶詰を吾輩に与えてくれるのである。それ以外でお腹が空いた時は、事務所の外で適当に見繕うことにしている。
吾輩が腹を満たした頃、というのはつまり六時近くだったと思うが、事務所に夕虹がやって来た。学業を終えて少し疲れた様子の夕虹は、ここに忘れ物をしたと思うのだけど、と言いながらドアを開けて入ってきたのだ。庭は彼女を、いつもとまったく変わることのない笑顔で迎えた。
「こんな時間に君を迎えるのは初めてかもしれないね、夕虹ちゃん」
「ああ、確かにそうですね。お兄ちゃんもいませんし……ところで、忘れ物と言うのは髪留めのピンなんですけど、庭さん、見かけませんでしたか」
「ピンかい。ピン、ピン……」
庭は椅子に座ったままで、指をひょいひょいと事務所内に振るような動きをした。
「ここにはない、あそこにはない、こっちにもない……」
そして、唐突に立ち上がった。急な行動に驚いている夕虹の額にかかる髪の毛を撫でて、庭はふふっと笑った。
「ここにあった」
そう言う庭の手の中には、確かに、今朝、夕虹が髪につけていたピンが光っていた。
「わあ……! 庭さん、ありがとうございます。凄い、魔法みたい」
「簡単な手品だよ。実は、君が行ってしまってからすぐに見つけてね。きっと取りに戻ってくるだろうと思っていたのだよ」
夕虹の髪にピンを挿し、庭は肯いた。
「ああ、やっぱり似合うね。君はこうでなくては」
「ありがとうございます」
夕虹は事務所の窓から差し込む夕陽の中で顔を赤らめた。
「あ、それじゃあ私、もう帰ります。お兄ちゃんに心配されちゃう」
慌てて帰り支度を始める夕虹に、庭が言う。
「何かと物騒なようだから、私が送って差し上げよう。なに、空彦クンの家の住所なら承知しているよ」
「え、本当ですか。ありがとうございます」
「……っと。この辞書を、空彦クンに返さなくてはね」
言って、庭は机に置いてあった、それはそれは分厚い辞書をひょいと持ち上げた。人間の使う言葉と言うものは、なんという重さを有していることか。吾輩が感心して辞書を眺めている間に夕虹がお辞儀をし、二人は並んで事務所を出て行った。吾輩も、こっそり後をついて行くことにした。
二人は事務所から大通りへ続く道を並んで歩いている。春とは言え、まだ日没は早い。空は既に暗くなりつつあり、小さな路地には人家の灯りさえ射さない。大通りまであと少し、という頃になって、庭が不意に立ち止まった。並んで歩いていた夕虹も足を止める。
「庭さん?」
「夕虹ちゃん、そこに何か落ちてないかな。私にはよく見えなくて」
そう言いながら、庭は夕虹の足元を指差した。
「え、何ですか……」
夕虹がそう言ってしゃがみこんだ瞬間、彼女の後頭部をめがけて、庭は手にしていた辞書を振り下ろした。
「っ」
夕虹はそのまま地面に倒れこんだ。恐らく打ち所が悪かったのだろう、夕虹は意識はあるようだが立ち上がることができない。どうにか腕を上げようと指先を動かした、その手めがけて、再び辞書が振り下ろされる。そして更にもう一振り、もう一振り、と、計十数回、夕虹の頭の上に、辞書が振り下ろされた。十二回目あたりだったろうか、ぼぐ、という鈍い音が聞こえて、それきり夕虹は動かなくなった。
にゃおーん
吾輩が自分の存在を知らせながら庭の足元まで歩いていくと、庭はいつもの笑顔で吾輩を抱き上げた。
「なんだ、ねこちん。君もいたのかい」
優しい笑顔だった。庭はそのまま吾輩を下ろし、動かない夕虹の頭から滲んだ血を、指に取った。しゃがんで、その指で夕虹が持っていた鞄の上に何かを書き記し、さっさと立ち上がった。
「さあ、帰ろうか」
にゃあお
吾輩と庭は、もと来た道を歩いて事務所まで帰ったが、事務所の前まで来てから、庭は思い出したように、自分が持っていた辞書を見直した。そこにはありありと、夕虹の血痕が残されている。
「ああ、忘れてた。これを処分しなくては」
庭はそのまま事務所の裏手に回り、いつも携帯している燐寸箱を取り出した。しゅぼ、という音と共に表れた炎が、凶器を静かに消し去っていくのを、庭と吾輩はじっと見届けた。やがて凶器は黒い消し炭になり、それを適当に地面に隠してから、庭は吾輩を抱きかかえ、庭の寝床である、廃ビルの三階へと向かった。三階には庭が収集した古本の類が所狭しと積み重ねられており、中には先ほどの辞書と同じか、若しくはそれ以上の分厚さを持つ辞書類もある。庭と吾輩は毎晩、その本の海の真ん中で、寄り添いあって眠るのだ。
「ねこちん」
庭は、吾輩と共に冷たい床に横たわってから、吾輩を見つめて言った。空洞のような目だ。
「ねえ、ねこちん。空彦クンは、良い奴だよね。ねえ、ねこちん。空彦クンは、私が夕虹ちゃんを殺したと知っても、友達でいてくれるだろうね」
吾輩には、答える言葉はなかった。そして、既にその必要もなかった。
庭は静かに、寝息を立てていた。