赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (70)
『空気が、重く澱んでいやがる。
むせかえるようなヒメサユリの匂いに混じって、かすかにだが、まだ
かつお節の匂いが残っている。とりあえずは、
ラッキーといえる展開だ・・・・
突風が吹く前に、無事に山荘へたどり着きたいもんだ』
時々、小鼻をあげ、たまがかすかに漂っているかつお節の匂いを
確認しています。
山道をどのあたりまで登ってきたのか、たまには見当がつきません。
たまの小さな足はすっかり泥だらけになり、清子が丁寧に拭いてくれた
背中にはたくさんの水滴がつき、柔らかだった毛先も
再びぐっしょりと濡れてきました。
白い霧の中から、突然たまの目の前にハイマツの茂みが現れます。
『ダメだな、こりゃ・・・・』たまが進路を右へ変えます。
尾根道を境にして、日本海側から突風が吹き付けてくる西の斜面一帯には、
ハイマツの群生がいたるところで見られます。
その一部が尾根の道を越えて、草原に姿を変えていく東側の斜面にも
点在をしています。
たまが進路を塞がれたのも、そうしたハイマツの群生の一つです。
ハイマツの群生地には、ヤチネズミやオコジョなど高山に特化した
小動物たちが、根や土の中にその棲家を作っています。
低地に住むと言われ、日本の古来種であると言われているエゾシマリスの姿も
時として、こうしたハイマツ地帯で見かけることがあります。
『なんだ。見かけない小僧だな、何者だ、あいつは・・・』
霧の壁の中から突然現れた見慣れない生き物が、ハイマツの下で身を
潜めているオコジョの目の前で、立ち往生を見せたあと、
トボトボと進路を右へ変えていきます。
『妙な小僧だな。背中に黄色い荷物なんか担いでいるぜ』
胡散臭そうに見つめているオコジョの目の前で、右へ進路を変えたたまが
再びガスの中へ消えていきます。
『なんだ、あのやろう・・・
これから、天候が悪化するのは目に見えているというのに、
ウロウロと山の中を歩き回っているなんて、無警戒すぎるにも限度がある。
どう見てもこの厳しい自然界で、長生きが出来るタイプじゃねぇなぁ、
あいつは。
状況が的確に読めない単細胞ほど、始末が悪い。
ふん。だが、満腹の今の俺にはまったく興味がねぇや。
幸運だったな、お前』
ジロリと、たまの姿を見送ったオコジョが
『一眠りでもするか』と目を閉じます。
たまは進路を右へ迂回したまま、しきりに空中の匂いを嗅ぎ分けています。
『おかしいなぁ・・・・急に風向きが変わってきたような気がするぜ・・・
さっきまでの、かつお節が突然消えちまった。まいったなぁ』
たまの独り言が終わらないうちに、草原の草がまた
サワサワとして動き始めます。
『風が、やって来る前触れだ!』たまの背中の毛が
一瞬にして逆立ちます。
ヒュウ・・・・と草原で風が鳴りはじめます。
『おいでなすった!』たまが小さな両方の足で、
必死に大地を踏ん張ります。
草原を激しい勢いで駆けぬけた風が、抵抗を見せるたまの体を
軽々と空中へ持ち上げてしまいます。
『え?』目をまん丸に見開いたたまが、空中で必死になって
手足をもがきます。
『と、飛ばされているのかよ俺は。簡単に風につままれて、
オイラの身体は!』『もうだ駄目だ!』たまが覚悟を決めた瞬間、
ふっと風がゆるみます。
幸運なことに、たまの体がオコジョが潜むハイマツの
茂みの上に軟着陸をします。
『あれれ、この野郎。
消えたかと思ったら、今度は風に乗って、
天から俺の住処になんか降ってきやがった。
おい、小僧。騒がしいぞ。
なにをひとりで好き勝手に遊んでいるんだ』
『いえ。別に、遊んでいるわけではありません。
大事なお役目を託されて、道を急いでいる途中です。
突然の風に弄ばれて、ここまで簡単に飛ばされてしまいました。
お初にお目にかかります。
そういうあなたは、いったいどこのどなた様ですか?』
『この野郎。人に物を尋ねるときには自分から、
こういう者ですと、先に名乗るのが仁義というものだろう。
まぁいい。今日の俺は久々の満腹で気分がいい。
俺様は、このあたり一帯を縄張りにしている、『仏の善治』という
ケチなオコジョ様だ。
で、そういうお前は、いったい何をそんなに急いでいるんだ』
『この先の山荘へ、救助を頼みに行く途中です。
オイラの飼い主ともうひとりの乙女が、ヒメサユリの群生地で、
遭難寸前なんです』
『よく言うぜ。
そういうお前さんこそ、強がりを言っているそばから、
風に飛ばされて遭難中みたいなものだろう?』
『そんなことは有りません。
たまたま風の方が元気よすぎて、ここまで飛ばされてきただけの話です。
げんにかつお節の匂いを辿って、ちゃんとここまでの山道を
自分の足で歩いてきました。
あ、あれ・・・今の風の勢いで、たのみの綱のかつお節の匂いが、
完全に消えてしまっています!』
『ほら見ろ。誰が見たって、そう言うおめえだって遭難中だ。
まぁいい。普段ならお前みたいな小僧は、一口で餌にしちまうところだが、
今日は大物を仕留めたので、いまのところは俺も餌はいらねぇ。
お前が行きたい山荘というのは、
人のいいヒゲの管理人がいる三国小屋のことだろう。
あいつにはときどき餌ももらっているし、なにかと世話にもなっている。
仕方ねぇなぁ。着いてこい、小僧。
お前みたいなガキを狙っている天敵が、
このあたりにはごまんと潜んでいる。
だが、俺が道案内をしてやれば、誰も手なんか出さないだろう。
ほれ。嵐が来る前にとっとと行くぞ、小僧!』
(71)へつづく
作品名:赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (70) 作家名:落合順平