赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (69)
『たま。お前だけが、私たちのピンチを救ってくれる
たったひとつの切り札だ。
かつお節の匂いを頼りに、山荘まで行って救助を呼んできてちょうだい。
できるわよねぇ、お前なら。
なんて言ったって、奇跡を呼ぶ三毛猫のオスだもの』
『この際、奇跡を呼ぶ三毛猫のオスというのは、
関係ないと思うがなぁ・・・・
でもよう。考えてみろよ、オイラだってこんな悪天候の中を歩いて、
たどり着ける自信なんか、まったくないぜ。
だいいちさぁオイラ、自分の足で山の中を歩くのは全く初めてだぜ』
『誰にでも最初は有ります。
経験を積んで、そのうちにベテランに進化を遂げるのよ。
清子。たまがこれ以上四の五の言い出さないうちに、
背中へ荷物をくくりつけて、さっさと放だしちまおうぜ。
たま。あんたも男のはしくれだ。
腹と覚悟を決めて、さっさと山荘まで救助を頼みに行かないと、
あんたのその首を締めて、もしもの時のための食料に変えちまうよ。
皮は、三味線屋に売り飛ばすから、安心をしなさい。
いいのかい、そういう目にあっても!』
『乱暴だな恭子は。清子。笑っていないでなんとか言ってくれよ。
恭子のやつに、本気で皮を剥がれて餌にされちまいそうだ。
こいつ。可愛い顔をしているくせに、いつでも本気だから始末に悪い』
『うふふ。お姉ちゃんなりにあんたを激励しているのよ。
ほら。こっちを向いてごらん、たま。
またどうせビッショリに濡れちゃうだろうけど、とりあえず
お顔を、きれいにしてあげるから』
たまを抱き上げた清子が、リュックサックから新しいタオルを取り出し、
丁寧に全身を吹き始めます。
しっとりと濡れていたたまの毛先が、再び柔らかさを取り戻します。
その背中へ恭子が、イイデリンドウの登山バッジを包み込んだ黄色いハンカチをしっかりとくくりつけます。
『出来上がったぞ、たま。
しっかりと空中の匂いを嗅いでご覧。
かすかにだろうけど山荘の方角から、かつお節の匂いが
漂っているはずです。
でもね、たま。もう一度突風が吹き始めたらすべてが終わりだ。
万事休すだよ。
かつお節の匂いも吹き飛ばされちゃうだろうし、
ここにいるあたしたちの匂いも、たぶん消えちゃうだろう。
そうなったらあんたはこの山で、永久に迷子のままだ。
あたしたちも迷子のままになるし、同じくあんたも迷子のまんまになる。
助かるためのチャンスも時間も、それほどは残っていないんだ、たま。
唯一の助かるチャンスは、あんたが握っているんだ。
頼んだよ、たま』
恭子の柔らかい手が、たまの頬を優しく愛撫します。
『行っといで、たま。あんたなら絶対に出来るから』と傍らの清子も、
柔らかい笑顔で微笑みます。
ゴクリと生唾を飲み込んだたまが、生まれて初めてとなる山道に、
最初の一歩を踏み出します。
ヒクヒクと小さな鼻を動かしたあと、空気中にかすかに漂っている
かつお節の匂いを頼りに、さらに次の一歩を踏み出します。
『匂ってくるぜ、間違いねぇ、山荘はこっちの方角だ。
じゃあな、行ってくるぜい、お2人さん。必ず救助を呼んでくるからな』
頭を低く保ったたまが、水滴に濡れた草の道を小さな歩幅で歩き始めます。
数歩を前に進んだとき、2人の視界からたまの姿が霞みます。
振り返る様子も一切見せずに、立ち込めているガスの壁に向かって、
小さなたまの背中姿が、敢然と消えていきます。
『大丈夫かしら、たま。
振り返りもせずに行っちゃったけど・・・・』
『格好良かったわねぇ、たま。
男が決断を下した時の凛々しさを感じました。
だけどねぇ、何といっても此処ははじめて歩く山の中だ。
視界が悪い上に、いつ突風が吹くか油断できない。
それにここには、小動物たちを狙う天敵が、
たくさんいるからなぁ・・・・』
『天敵!。聞いていないわよお姉ちゃん、そんな話は!。
でもさ。天敵と言ったって、小動物を狙うトビやタカたちだって、
このお天気では空を飛べないでしょう。
そう言う意味では、たぶん、安全だとは思いますが』
『ところがねぇ、敵は空だけじゃないんだ。
地上にも小動物を狙う天敵が、いたるところに潜んでいるんだよ。
愛嬌があって、いまにも人に懐きそうに見えるオコジョなんかは、
その中でも、天敵の代表格だ。蛇も、油断のできない生き物さ。
隠れる場所が少ない草原を歩いていくということは、
そういう天敵たちに、身体をさらしながら歩いていくことを
意味しています。
無事にたどり着けるかどうかは、
あとはたまが、生まれながらに持っている運次第です』
『運次第・・・・』目を見開いた清子が、たまが消えていったガスの
濃密な壁を見つめて、思わず、ごくりと生唾を飲み込みます。
(70)へつづく
作品名:赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (69) 作家名:落合順平