小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

夢の運び人 16

INDEX|1ページ/1ページ|

 
夢の運び人は男を見ていた。
 細かい虫が飛び交っている街灯が、同じ間隔で並んだ公園。その木造ベンチの上で、街灯の光を避けるように段ボールにくるまって身を縮めている。
 よく晴れた暗い空に浮かんでいる月に照らされた男の顔は痩せていて、無精髭が目立った。伸び放題の頭髪は後ろで結べるほどである。そんな身なりのお陰で年齢は二十代後半か、それ以上に見えた。
 ベンチの傍らに無造作に置かれた、男の荷物と思われる黒いボストンバッグの上には本が三冊、無造作におかれている。見るからにボロボロで、カバーはなく、灰色の表紙が顔を出していた。本の題名は『就職に勝つための面接』とか『就職のための一般常識』だとかで、夢の運び人はその一冊を見ようと手を伸ばす。そうして男の顔に近づいたとき、男から酸っぱい臭いが不意に鼻をついて、運び人は本を取るのを諦めた。
 運び人は唸るように息を吐いて、大きな袋から夢を取り出し、男の顔を目掛けて投げるように入れた――

――私の人生は、はたして何だったのか。
 仕事をクビになり、マンションの家賃も払えず追い出されてしまった。そろそろ貯蓄も底を尽きる。特に他人を愛する事もなく、ただ無気力に人生を歩んで来た。
 私の人生は一体何だったのか。
 この暗闇で私は考え込んでいる。暗闇は私の人生そのものであった。後も先も見えない暗い人生。
 先に進んで壁に当たり、壁を超えようとする前に挫折して、誰かが超えていくのをただ眺めてそれを真似した。
 正に価値の無い人生だ。生産性の欠片も無い。そこら辺で動いている虫の方がマシなくらいだ。
 私は頭を抱え、銀色のパイプ椅子に座ってうずくまる。するとスポットライトのような光が私を上から照らした。その光源は分からない。確認する必要もない。私にはその光を見ようと上を見上げる権利などない。
「死のう……」
 私が常常思っている事が言葉となって口からこぼれ落ちた。その言葉は暗闇に吸い込まれて消える。
 大きく息を吐いた。
 スポットライトは、舞台の幕を閉じるように静かに消えていった。私は暗闇に飲み込まれて同化する。暗闇は居心地が良かった。
 誰も私を見ない。
 誰も私を責めない。
 最初からそこにあった『物』でしかない。
 私が暗闇を受け入れかけたその時、私の数歩先でスポットライトの光が二つ点いた。光で照らされている二つの物は木造のドアで、私から見て右側のドアは新しく真っ白だ。もう片方のドアは茶色くて古い印象を受ける。
 私は、暗闇に現れた対照的な二つのドアを見比べた。よく見ると札が貼ってある。真っ白のドアには『入口』茶色いドアには『出口』とあった。
 一体どこへの『入口』でどこからの『出口』なのだろうか。
 ぼやけてきた私の思考が拙い好奇心をドアに向けた。
 私は岐路に立ったのだと、その時悟った。死以外の選択肢を見つけ、私はいつの間にか、どちらを開こうかと考えている。そしてどちらかは死への扉という事も私は知っていた。
 死を望んで尚、希望があればそれにすがろうとするのだから人間とは不思議である。
「そうか、私は生き続けたいのか」
 思考ではなく、別の何かが私の中で叫んでいた。
 生きる為の選択を迫られていた。選択を間違えれば死ぬ。生きる意味を見いだせないこの世界と別れ、本来の望み通りに。しかし、正しい選択をすれば未来がある。今までと変わらない未来なのか、もっと別の……一段上の明るい未来なのかは分からないが。
 私は決断した。
 数歩前へ進み、ドアノブに手を掛ける。その時、隣のドアが横目で見えた。
 茶色のドアの前に背の低い何者かが私に微笑んだ気がした。あれは死神だろうか。
『入口』と書かれた白いドアを開いた。
 ドアの向こうには、真っ白の世界が広がっていた。暗闇から一転した白さに目を細める。
 視力が回復すると、白い世界の中央に黒い何かが置いてあるのが分かった。重量感を出して、まるでそこに初めから存在していたかのようなその物に私は目を凝らした。
 ピアノだった。
 白い世界に黒く光るピアノが置いてある。
 私はそのピアノに近付いた。ピアノは曲線が美しく、私が表面を撫でると、黒く光るつややかな表面に手が反射して映った。私は白と黒が歯のように並ぶ鍵盤の前に立つ。
 何も考えず、ただ鍵盤を眺めていると、不意に楽譜が浮かんだ。楽器を触る事など今までの人生で皆無に等しいが、元から私の頭で準備されていたかのように浮かんだのだ。頭の中で広がった楽譜が音を奏で始めた。
 すると今度は、その楽譜をピアノで弾きたくてたまらなくなってくる。
 脳が、指が、更には全身が、ピアノを弾きたくて疼いている。
 私はその本能に従った。逆らう理由なぞ何もなかった。
 鍵盤に添えた指は滑らかに動き出す。どれを叩けばどんな音が出て、次にどれを叩けばよいのかを私の体は完璧に把握していた。頭に浮かんだ楽譜に合わせて奏でる。
 それは爽快であった。
 小川のように静かに、そして心地よく流れるその音は白の世界に響く。
 いつまでも、どこまでも弾いていられる、そんな気がした――

――夢の運び人は、男が寝ているベンチを木の上から見下ろしていた。時に苦しそうに、時に楽しそうに変化する男の寝顔は見ていて飽きなかった。
 太陽が昇り始めて、公園をランキングする人間がちらほらと見え始める。軽やかに走る若い女性が、男の寝顔を見てその整った顔をしかめた。
 太陽の光が男の顔に差し込む。男は目を勢いよく開けた。
 男は目をキョロキョロと動かすと、ベンチからゆっくり身を起こして座る。それからしばらく空を仰いで、何かを考えているようだった。
「夢……だったのか」
 青い空を見ながら肩をすとん、と落とす。何かに落胆したように溜め息を吐いた。
「忘れよう」
 独り呟いて男は立ち上がる。ベンチの傍らに置いたボストンバッグの中に三冊の本を詰め始めた。
 詰めている途中でどこからか流れる音楽が男の耳に届く。その音楽は、最近流行りの邦楽で、極ありふれた物であったが、男はピクリと反応してボストンバッグに本を入れる姿勢で停止し、耳を傾ける。
 音楽を流していたのは、男のベンチの向かいでベンチに腰掛ける青年の携帯であった。青年が電話に出た時点で音楽は止まった。
 それでも尚、男はボストンバッグに本を入れる姿勢で固まり、眉間に眉を寄せていた。その表情は頭の中に突然現れた何かに戸惑っているようであり、どこか嬉しさを感じさせる。
 数分後、立ち尽くしていた男は、ようやく本をボストンバッグに入れる。ボストンバッグを肩に担いで公園の道を歩む男の顔は、明るい未来へと向いていた。
作品名:夢の運び人 16 作家名:うみしお