ボタン
「でも、あなたの大事な人を救うためには押すしかないんじゃありませんか?あのボタンを。ただ、この先あなたがどんなに辛い人生を送ったとしてもあそこに書いてある通り、自分で死ぬことはできなくなりますけどね」
迷いはなかった。
次の瞬間、またも電車が鳴らす警笛のような大きな音が建物内に響き渡った。
俺は意識を失いその場に倒れこんだ。
冷たい水滴が右手の甲を突き刺した。俺はびくっとして意識を取り戻した。誰も居ない公園のベンチで眠っていたようだ。なんでこんな所にいるのだろう?さっきの出来事はなんだったんだ!みんなはどうなった!あの男はどこにいる!周りを見渡してもそこには誰もいなかった。
とりあえず、母親に電話をかけてみよう。ポケットから携帯を取り出し開くと留守電のメッセージが三件入っている。すぐにメッセージを再生した。
「母です。変わりはないかい? 昨日、あなたが自殺する夢を見てしまってね。不安でいてもたってもいられなくなって電話してしまったの。何か困ったことがあったら、相談してね。そうじゃなくても声だけでも聞きたいからお願いだから連絡をください」
一件目は母からだった。十分前に残されたメッセージだった。良かった母親は無事だったんだ。
二件目は武から、同じような内容のメッセージだった。そして最後に入っていた三件目のメッセージを聞こうとしたその時だった。
目の前に今にも泣き出しそうに眼に涙を浮かべた由紀子が立っていた。
「健ちゃん……、もう五年も付き合っているんだから、健ちゃんのことはよくわかってる。要領が悪くて、曲がったことが嫌いで、仕事がうまくいかなかったよね。でも何時でも一生懸命で優しくて、私のことを思って頑張ってくれていた。そんな健ちゃんを見て、私も頑張ろうって思えた。だから、私は健ちゃんと一緒にいたい。別れるのを考え直してもらえないかな……」
俺は立ち上がり、由紀子の体をぎゅっと抱きしめた。涙が自然とこぼれ落ちた。
「濡れたら、風邪ひいちゃうよ。帰ろう」
そう言って、由紀子は付き合い始めたときからずっと、失くしもせず、壊しもせずに二人で使っている大きな赤い傘をさした。
家へ帰ろうと公園を出ようとした時、ふと公園の向かい側を見ると、見たことのあるおやじが屋台でラーメンを出しているところだった。はっとして、まだ聞いていなかった三件目の留守電のメッセージを聞いてみる。
「いやあ、お元気ですか」
あの男の声だった。
「あなたが死ぬことはあなたの母親にとっても友人にとっても恋人にとっても、自分が死ぬのと同じくらいショックな出来事なのではないですか?あの時、あなたが最初にボタンを押した時に彼らが倒れたのはそういうことです」
三件目のメッセージの声は死んだ父親の声にそっくりだった――。