ドラジェ
移動サーカス団に拾われたのは、彼女がいくつのときだったろう。歳を数えるなんてこと、路地裏少女がするわけもない。そんな余裕はどこにもない。サーカス団のひとたちもそんなことはわかっているから、歳を訊くなんてことはしない。彼らは価値のない無駄を嫌う。
「お前はなんて名前にしようね」
左目に眼帯をしたガタイのいい男は、髭を揺らして笑って言った。
「おじさんがくれた、これはなあに」
男は右目を細めた。左目は、細められる状態にあるのだろうか。
「これは……女共が言ってたんだけどな……ル……そう、ドラジェ。ドラジェだ」
「じゃあ、わたしのこと、ドラジェって呼んで」
「おう、行こうか、ドラジェ」
男は黄ばんだ歯を見せて笑った。少女はドラジェと呟いた。
「ドラジェはドラジェがだいすき」
少女はサーカスで綱渡りを覚えた。広がるスカートの中のドロワーズを観衆に見せつけながら綱を渡った。揺れる綱とぶれない芯。煌びやかな衣装に素足。綱の感触がくすぐったくて、それを少女はきらいではなかった。二の腕あたりの肌の産毛が逆立つ感触も、決してきらいではなかった。何より、拍手を浴びるのがすきだった。ドラジェの次くらいに。ドラジェをくれるおじさんの次くらいに。
「おじさん、そのドラジェはどうしたの」
「知らねえ。女共にもらったんだ。これ、高い菓子なのか?」
「知らない。すきだから、どうでもいい」
男は笑いながら、ドラジェを大きな手でもうひとつ、差し出した。
「また、ドラジェ食べたい」
少女はもどかしかった。おじさんからドラジェを貰うには、おじさんをほかの女性と関わらせなければならない。おじさんとのつながりがドラジェだけということはなかったが、ドラジェがそこにあるおじさんとふたりの空間というのは、どんな楽園よりも特別だと思えた。
少女と男とドラジェは、長いようで短い時間を共に過ごした。半年程だった。少女を見初めた貴族の積んだ金は、サーカス団をより豪華にさせた。少女は着飾り、見知らぬ貴族の元へ旅立つ。
「おじさん、ドラジェはね、おじさんのことが好きだよ」
夕陽がとてもきれいだった。橙色の隅の薄紫が、どうにもさみしかった。
ふたりは並んで歩いていた。男は少女に合わせて歩幅を縮めて歩いていた。少女はそれに気づいていなかった。
「ほんとうよ。ドラジェはおじさんのことがだいすき。これから知らないひとのところに行くけれど、おじさんのこと、だいすきなの」
男は少女のつむじをやさしく見つめた。少女はまっすぐ前を向いていた。男は少女と握っていた手を離し、少女の頭を撫でた。
「お前の親父さんは、いつ死んだんだい」
少女は歩みを止めた。不機嫌そうな声で言う。
「ドラジェの話、聞いてたの」
「……聞いてたさ」
男は少女の頭を撫で続けた。空いた手でポケットを弄り、ドラジェを取り出した。
「ほら。ドラジェ……ドラジェだ」
男の目は慈愛に溢れていた。それが少女の癇に障った。
「おじさんってばっ」
夕陽がとてもきれいだった。
「おじさんもな、ドラジェのことすきだぜ。だから、ドラジェをこんなにやるんだよ。食えよ。そんでもって笑え」
ドラジェの唇がドラジェにふれた。
「ドラジェね、向こうに行ったら新しい名前を付けてもらうよ。ドラジェはドラジェだけど、ドラジェじゃないから」
「おう。そうしろ」
ドラジェは歯を見せて笑った。