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LOST SENSE ~第一章~ -1-

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~第一章 タカの末裔~

-1-

はじめに大地があった。
土があり色鮮やかな鉱石があり、大小様々な岩肌が作り出す無機質な世界だ。
まだ生物と呼べる者はいなかった。
そこにはただあるだけ、存在するために存在する『もの』だけの世界だった。
その世界はきっと見るものに心地よい緊張と厳しさを印象づけただろう。
無という美しさ、静謐という名の王国がそこにはあった。


いにしえの地での夜は長い。
暗がりの中、ときおり聞こえる『腐ヒト』たちの呻きとも
雄叫びともつかぬ叫びに、耳を凝らしながら男は思った。
篝火は焚かない。彼らは獣と違い火を恐れない。
恐れないどころかそれを好み崇拝している。

男は懐からスカラベを象った小型の琥珀灯を取り出し、
何度も読み尽くして、所々擦り切れた書物に目を落とした。

   
        『肺の書』
          
                  
殴り書きのように愛想のない題字。
黄ばんだ表紙には草花のレリーフも刷られていた。
申し訳程度に印刷されたそれは、
どこかすれたがきんこのような印象を与えた。

やれやれ、と彼はこの地に着いてから幾百回目かのため息をつく。
教会はなぜこの地の「兆し」を探せと命じるのだろう?
金貨三千枚の懸賞金?それどころか一ポンドの馬糞ほどの価値すら
この古い地にあるとは思えない。
彼らの話によるとこの地方の遥か北に時々、
光の柱が上がるのが観測されるらしい。
死霊使いたちの末裔によるものとされているが、
それが何を意味するのかは誰も知らないそうだ。

やがて彼は手にした本の表紙を一枚めくり、その言葉に目をやる。

    理想は汝の心に
        腐敗は汝の躰に宿る

彼は本を閉じ目を瞑る。眠りにつければ儲けものだ。

彼はトーレンという国に生まれた。いくさの弱さでは有名な国だった。
しかしそれと同じくらい哲人や学者など知識人を輩出することでも
有名であり、トーレンの長い冬の寒さや暗さといった気候が
人々を思慮深くさせるのだと言われていた。
しかし彼は陰鬱にこそ育ったものの、それらしい啓示は何一つ受けなかったし、
それらしい兆しも何一つ見せ無かった。

男の母親は幼い頃に亡くしたらしく記憶にない。
父親はパン屋を営み男手一つで彼を養ってきた。
しかし恵まれない境遇ながら彼は気立てのいい、
それでいて淑やかな妻を娶った。

妻との会話はあまり思い出せない。口数の少ない人だった。
彼は妻のことをあまり知らなかったが、
妻は彼のことをなんでも知っている風だった。
彼の生活……、好きな食べ物、寝る時間、口癖……。
だがそんなことを億尾にも出さずに妻は献身的に彼に尽くした。
逆に彼は妻のことはあまり詳しくなかったが良い人だとは思った。
なぜなら彼女の作るオニオングラタンスープが美味かったからだった。
だから仕事にも精が出た。小麦の入った袋を何百、何千と担いでは
荷台に乗せほうぼう回ったが、彼はその重さを心地よく感じていた。
妻は身ごもり、これからは倍の量の小麦を運ばなければならない。
しかし彼の心は運ぶ小麦袋よりは軽かった。
暴君『アオサギの王』の兵が彼の村を襲撃するまでは。

『アオサギの王』の命により村中の民家の扉には釘を打ち込まれた。
そして民を監禁した上で火を放ち、次々と焼き殺した。
炎の熱さに耐え切れず逃げ出したものもいた。
するとアオサギの兵隊たちは吹雪のなかでその者たちの衣服を
剥ぎ全裸にした。
そのうえであるものは風車にくくりつけられ、
あるものは氷の貼った湖に首まで浸からせ絶命するまで晒しあげた。
エーデルワイスの花園が燃え、炎に包まれた村の風車が音を立てて崩れ落ちた。
妻はその風車の下敷きになって大火傷を負い、
医者の代わりに駆けつけた兵隊たちにかわるがわる犯され絶命した。

「くそ……」

思考の営みがあまり愉快でない方向に流れそうになり、
それを断ち切ろうと腰に巻いた革袋に手を伸ばす。
そして煙草をひとつまみ握ると口に放り込み奥歯でギリギリと噛み締めた。
そうだ、俺に過去なんて存在しない。
むかしむかし……、なんて語り出せば曲がりなりにも一冊の本にはなるだろう。
だが俺はそんなもの書きたくないし読みたくもない。
やがて男の思考が取り留めなくなりかけたとき、
あれほど騒がしかった『腐ヒト』たちの叫びが今はしないことに気がついた。
静寂の中、冷たい風が森の木をかさかさと揺さぶる音まではっきり聞こえる。

しばらく耳を澄ませていたその時だった。男の耳にドオンと轟音が響いた。
それに少し遅れて顔に強風が叩きつけられ、そのあとに光の奔流が押し寄せた。
森を包んでいた闇……、漆黒は一瞬にして突き刺すような白さに追いやられ
思わず閉じた男の瞼の裏の毛細血管の筋まではっきりと浮かび上がらせた。
そして彼は脳裏に響く、その声を聞いた。

(よく来た……、風の客人よ……)

低く重々しい声。神の啓示ではなさそうだ。
どちらかといえばその逆……、陰なものを連想させる声だ。
やがて彼は自分の前方に気配を感じ、瞑っていた目を徐々に開いた。
白い世界に浮かび上がった黒い人影。
それを男はわずかに開いた瞼の隙間から見る。
人影は六フィートはあるかと思われ、やはり長いローブをはためかせながら立っていた。

「死霊……?」

男は直感でそう呟いた。

(汝を歓迎する……、ネイブス……。
一度は死んだタカの末裔……、鳥の時代の再来だ……)

自らの名を呼ばれ彼は驚くと同時に、なぜだか胸のうちに熱いものを感じた。
そしてうっすらと開けた瞼のあいだから、相手の顔を伺った。

男の名前はネイブス・フルーレ・アルノシュッツ。
ネイブスは鷹、フルーレは高見の、……そしてアルノシュッツは
王族であることを意味する。
作品名:LOST SENSE ~第一章~ -1- 作家名:Yuta