売店のおばちゃんとチョコレート
いつものようにチョコレートを買って、電車に乗り込んでいく彼女を私は横目で見ていた。電車に乗る前にチョコレートを一粒食べた。電車に乗り込んでから、二粒目、三粒目、今にも泣きそうな顔で次々とチョコレートを口に入れている。
涙目になって、彼女は電車から降りてきた。水飲み場の排水溝でチョコレートを吐き出している。それをみて、私は居た堪れない気持ちになり、彼女のそばへ行き、背中をさすってやった。何があったのかはあえて聞かなかった。
彼女はなんとか呼吸を整えて、無言で私にお辞儀をして次の電車に乗り、家へと帰って行った。
※※※
また……わたしは駅の売店でチョコレートを買った。翌日のことだ。理由は何もない。いや、自分が嫌だから。嫌いだから。情けないから。自信がないから。
売店の店員はいつもと同じあのおばちゃんだった。売店の前に立って、手をのばそうとしたわたしに、赤いパッケージのチョコレートを手に持っておばちゃんが言った。
「これだね」
「……」
わたしは何にも言葉を返せなかった。
「元気出しなよ。そんなにつらいことばかりじゃないよ。頑張っていれば必ず、いいことがあるから!」
「……」
温かった。おばちゃんの言葉がとても温かくて胸にジーンと沁みた。でも、不思議と涙は出てこなかった。
トレーに百円玉と五円玉を置いた。お釣りがないはずなのにおばちゃんはわたしのほうに手を伸ばしてきた。
おばちゃんの手がわたしの手を優しく包み込んだ。おばちゃんは何も言わずに穏やかな笑顔で一度、頷いた。
「……ありがとう」
ちいさな、ちいさな声でわたしはそう言った。おばちゃんはわたしの顔をみてもう一度頷いた。
電車が来た。私はなぜかチョコレートのパッケージを開ける気にはならなかった。
※※※
その日は私の方から彼女に話かけてしまった。黙っているのが耐えられなかった。自分の娘を見ているようで、放っておけなかった。気の利いたことは何も言えないけれど、何とか少しでも元気を出してほしい。もし、複雑で冷たい人間関係の中で孤立しているのなら、少しでも人の温もりを感じてほしい。そう、思った。
口に出しては言わなかったけど、“あなたはまだ若いのよ、これからなんだから、笑顔で前向きになりなさい”そんな思いを込めて、彼女の手を握って微笑んだ。
「ありがとう」小さな声で彼女は言った。私は自分の娘から言われた最後の“ありがとう”を思いだそうとした。あまりに昔のことでそれがいつのことだったか思い出せなかった。
私は彼女が買ったのと同じ、赤いパッケージのチョコレートの封を開け、一粒口に入れた。
※※※
いつも乗っている帰りの電車は昨日とは違う空気が流れている気がした。さっきの売店での出来事が、自分の感覚を変えてしまっているのかもしれない。電車が自宅の最寄りの駅に到着した。売店で買ったチョコレートは未開封のままでバックに入っている。
駅から出て、自宅までの道を歩く。私の横を自転車に乗ったサラリーマンがなかなかのスピードで追い越していく。さらにその横の片側四車線の大きな車道を大きなトラックがかなりのスピードで追い越していく。
わたしは普通なら自宅まで徒歩十分の道を倍の時間をかけて歩いた。帰り道を歩くときはいつも、暗いことばかり考えていた。でも、今日はなぜだか少しだけ気持ちが落ちついている。
自宅に着いた。バッグをベッドの上に放り投げて、冷蔵庫を開けて牛乳をだし、コップに注ぐ。
牛乳を一口飲んだら、甘いものが欲しくなった。わたしは、はっと思い出してバッグの中から駅の売店で買った赤いパッケージのチョコレートを取り出した。
パッケージを開けて、一粒口の中に入れる。
「おいしい」思わず声が出る。
「……おいしい」胸が詰まる。
「おいしいよぉぉぉぉっ……」涙があふれる。
その時のわたしの頭の中に駅の売店のおばちゃんのやさしい笑顔が思い浮かんだ。
わたしは赤いパッケージのチョコレートをすべて食べきった。食べきることができた。
次の日、わたしはまた、駅の売店でチョコレートを買った。トレーに赤いパッケージのチョコレートと百円玉と五円玉を置く。その時のわたしは、ほんの少しだけ、笑顔を浮かべることができた。
※※※
次の日、彼女はまた売店にやってきた。でも、いつものような暗い顔ではないような気がした。彼女はいつもと同じチョコレートと百円玉と五円玉をトレーの上に置いた。
その後、彼女はほんの少しの笑みを浮かべた。彼女のその顔を見て、私は決心した。自分も前向きになろうと、ずっと連絡が取れない娘を何とかして探し出そうと……。
おわり
作品名:売店のおばちゃんとチョコレート 作家名:STAYFREE